受難節第6主日礼拝説教

2023年4月2日

ルカによる福音書 23:32-49

「十字架の上で」」

イエスさまはゴルゴタの丘に引き連れて来られました。「されこうべの場所」とも呼ばれるこの場所ですが、名前由来はハッキリしていません。地形に由来するとか、骨が散乱していたからなど、様々な理由がまことしやかに述べられてきましたが、そのどれも明確な根拠を欠いています。この丘でイエスさまは十字架にかけられました。衣服をはぎ取られ、十文字に組まれた粗削りの木に腕を釘打たれ、さらし者にされました。イエスさまの左右には、同じように二人の男が十字架に付けられていました。

イエスさまは祈りをささげられました。ご自分が救われることを願った祈りではありません。ご自身を十字架に付けた人々のために赦しを願って祈られました。敵意をむき出しにして「十字架につけろ」と叫び続けた人々のために。イエスさまは「あなたの敵を愛しなさい」と、かつてご自身が人々に教えられた御言葉を、まさにその通りに行われたのです。そして、この祈りは一連の出来事に関りも関心も持たず、ただ職務の一環としてご自身を十字架に付けるローマの兵士たちのためにも捧げられました。

十字架が立てられると、ここに来るまでイエスさまが召しておられた衣服がくじ引きで分けられます。これは詩編22編の成就ですが、これによって十字架の上での死の背景にある神さまの御心が暗に示されます。詩編22編29節には「王権は主にあり、主は国々を治められます。」とあり、また「わたしの魂は必ず命を得、子孫は神に仕え、主のことを来るべき代に語り伝え、成し遂げてくださった恵みの御業を民の末に告げ知らせるでしょう。」とあります。いま成し遂げられようとしている十字架の出来事を通して全ての人が神さまの御支配の内にあることを知り、十字架の上から与えられる恵みの内に招かれ、それを子々孫々に至るまで伝えるようになると宣言されました。

たくさんの人々が遠巻きにして、イエスさまの十字架と、その周りで起きている事柄を見つめています。十字架のそばには議員たちが居て、イエスさまに心無い言葉を浴びせています。「救い主だと言うのだから自分自身を救うがよい。」

このように罵られることもまた、詩編において預言されていました。「わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い、唇を突き出し、頭を振る。主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら助けてくださるだろう。」まさにその通りに成就しました。

肉体的な苦痛の上に辱めによる精神的な苦痛を加えられるイエスさまに、さらに別の方向からも侮辱の言葉が飛んできます。同じように十字架に付けられている罪びとの一人が、議員たちと同じように「救い主なのだから自分を救え」と言って嘲笑します。これらの言葉から、彼らが救い主について大きな誤解をしていることを読み取れます。彼らは、救いの力はまず、その力を持つ人自身のために発揮されるはずだと考えています。その背景には、彼らが持っている「自分ならそうする」という考えがあります。彼らにとっての救いとは、自分が追い求める欲求が満たされることを指しているのです。だから、イエスさまに救いの力があるのであれば、当然まず自分を救うはずだと考えているのです。

議員たちはイエスさまを全く理解していません。同じように十字架につけられている男もまた、同じような感覚でしか救いを理解していないので、議員たちと一緒になってイエスさまを罵ります。すると、見かねた人がこれをたしなめます。それは、なんと反対側で同じように十字架にかけられている男でした。

この二人が十字架にかけられるべき理由をルカは記していません。マタイとマルコはこの二人が強盗であったと記録していますが、強盗という言葉は熱心党の活動家をローマの側から見た呼び名であると考えられています。彼らはユダヤの国を自分の願った通りの姿に、自分たちの力によって変えようと考えて実力行使をする人物でした。つまり彼も自分の欲求が満たされることを第一に願っていたのです。だから、一人は議員たちの側に立ってイエスさまを罵りました。しかし、もう一人は十字架の上でイエスさまが祈りを聞き、イエスさまの御姿を見て自分の過ちに気付き、イエスさまを罵る仲間をたしなめました。

「私たちは己の行いによって処罰されている。我を張って治安を乱したのだから、それは当然の報いである。しかし、この方は違う。ただただ人を赦そうとしただけではないか。そして今もなお、ご自分を苦しめる者たちのために赦しを願って祈っておられる。この方こそ神さまの遣わされた方だ。この方を罵るのは神を畏れぬ行いなのだからやめろ。」

彼はイエスさまが救い主であると気付き、信仰を告白しました。そして救いと赦しを請い願います。「あなたの御国においでになる時には、わたしを思い出してください。」御国とは、イエスさまが王として支配なさる国のことです。彼はイエスさまの十字架の上に掲げられている札に刻まれた「ユダヤ人の王」という言葉を嘲りの言葉としてではなく、イエスさまこそ真の王であると理解し、イエスさまが御支配なさる国に招き入れられることを願い出ました。するとイエスさまは、「あなたは今日、わたしと一緒に楽園に居る」と宣言なさいました。

「楽園の中に入る」とは、神さまの祝福と喜びに入り、救いに与るという意味です。今、罪びとが立ち返りました。罪の中から一人が救い出される。それは神さまにとっても喜びであり、祝福されるべき出来事です。末期の苦痛の中にあっても、イエスさまは罪びとを赦し、救われました。

この後、太陽が光を失い、あたりが暗くなりました。これは天文的な現象ではありません。過ぎ越しの祭りは満月の直後に祝われますから、太陽と月の位置関係から考えて日食ではありえません。ユダが引き連れて来た一隊に捕らわれた時、イエスさまは「いまはあなたたちの時で、闇が力を振るっている」と仰いましたが、この御言葉が喩えとしてではなく、文字通りあたりが暗くなって、今人々がどのような状態に置かれているのかが示されました。最期まで愛を貫こうとされるイエスさまの御姿を見て、これまでイエスさまを罵っていた人々も沈黙せざるを得なくなったのでしょう。そして自分たちの罪深さ、自分たちの心が闇に支配されていると気付いたのではないでしょうか。

その時、神殿の垂れ幕が真っ二つに裂けました。この垂れ幕は神殿の中でも特に奥にある至聖所を囲む幕でした。そこは神さまの御声を聞くために、選ばれた人だけが入れる場所でした。つまりこの幕は、神さまと人々との間を隔てる分厚い仕切りでした。その隔てが裂け、誰もが神さまに親しく近付けるようになったのです。

そしてイエスさまは最後に大きな声で叫ばれました。

「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」

これは詩編第31編6節の引用です。この詩編の最後は「主の慈しみに生きる人はすべて、主を愛せよ。」との命令と、「主を待ち望む人はすべて、心を強くせよ。」という、主を待望する者への励ましで終わっています。イエスさまは愛と希望を語って息を引き取られました。

この様子を見ていた全ての人が、やっとイエスさまの本質に気付きました。それまでは自分に関係の無いことだと思ってただ眺めていた百人隊長は、イエスさまを正しい人だったと言いました。されこうべの場所に集まっていた群衆は胸を打ちながら、つまり自分たちのしたことを強く悔いながら家に帰って行きました。

最期の瞬間まで愛を貫かれたイエスさま。十字架の上でも赦しと愛を説かれたイエスさま。この御姿を仰ぎ見、その本質を理解した時、決して交わらないであろうと思われていた心ですら、イエスさまを罪ありとして殺そうとした人々の心も、自らを救うことすらできない者であると罵っていた人々の心も、自分とは無関係だと決めてかかっていた人の心も、十字架の上で重なり、救いへと導かれるのです。全ての人が救いへと導かれるのです。そこに十字架の希望があるのです。

救いには、神さまの憐れみには制限がありません。ただ、自らを省み、十字架を仰いでイエスさまに救いを求める時、私たちには赦しと救いが与えられるのです。

受難節もいよいよ1週間を残すばかりとなりました。イエスさまの御苦しみと、それを乗り越えて与えられる赦しと救いを思いつつ、受難週の一日いちにちを大切に過ごしましょう。

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