復活節第4主日礼拝説教

2023年4月30日

ヨハネによる福音書 6:34-40

「命のパン」

今日の聖書箇所の選ばれ方というのは非常に面白い、ユニークだなと思わされております。

旧約聖書では、マナの奇蹟の箇所が読まれました。

旧約で奇蹟のことが読まれたのですから、新約でもやはりイエスさまのなさった奇蹟について読まれても良いのではないか思いますけれども、今日読まれた箇所はイエスさまが奇蹟を行われた後に起きた出来事についてです。

さて少し旧約の方を見てみましょう。マナの奇蹟です。

エジプトで虐げられていたイスラエルの民は、モーセに率いられて荒れ野へと旅立ちました。しかし、エジプトのファラオは軍勢を率いて彼らを追ってきます。エジプトに引き戻し、奴隷として働かせようというのです。しかし、葦の海で神さまご自身がエジプトの軍隊と戦ってこれを退けられました。

ほっと一安心したのも束の間、次の危機がイスラエルの人たちを襲います。それは食糧不足でした。彼らは大急ぎでエジプトから出てきたので、食べ物を持っていなかったのです。

たちまち飢えに苛まれた人々はモーセに食ってかかります。食べ物を用意してほしい。でないと、俺たちはここで死んでしまうじゃないか。

モーセは彼らの願いを聞いて、神さまに祈りを捧げます。すると、神さまは地表に不思議な食べ物を与えてくださいました。それがマナです。それは薄くてウエハースのような味がする食べ物だったと言います。どういった食べ物であったのかはハッキリしていませんが、

神さまがこの人々の必要を満たしてくださる、今始まったばかりのこれからの旅の道中ずっと、神さまがその必要を満たしてくださるということが明らかに示されたのです。

この後もイスラエルの人々は何かあるとすぐに不平を漏らします。この直後には、水が無いと言って騒ぎます。食べ物と水はどうしても最低限必要なものなので、どうしても声を上げたくなる気持ちというのも分かるのですが、これがさらにしばらく経つと肉が食べたいと、要求がエスカレートするのです。挙句、奴隷状態であったエジプトの方がまだマシであったなどと言い出します。喉元すぎればケロリではありませんけれども、あれほど苦しめられていたエジプトのことをかえって懐かしむ声すら出てくるほどに。

彼らは満たされていたはずなのに、満たされなくなってしまった。満足するということを忘れてしまった、そういう民になってしまったのです。

これと同じような構造が、実は今日、イエスさまとイエスさまの周りに集まってきた人たちとの間にも見られます。

イエスさまは数多くの奇蹟を行われました。これを見ていた人々は、素晴らしい出来事が起こったと喜びました。今ここにも、イエスさまのなされた奇蹟の一つに預かった人々がイエスさまを追ってきています。これらの人々は飢えを満たしていただいた人々でした。しかし、イエスさまは追ってきた人々に対して、あなたたちは私を信じていないと厳しい言葉を発せられました。なぜイエスさまはご自身を慕う者たちにこのような厳しい言葉を投げかけられたのでしょうか。

イエスさまがガリラヤ湖の向こう側に渡られたとき、多くの人々がイエスさまを追ってついてきました。彼らはイエスさまが方々で病人を癒された様子を見たり、人づてに聞いたりして、この方こそ自分たちを救ってくださる方であると感じて、イエスさまを慕って集まってきた人々です。

イエスさまは集まった人々が食べ物を持っていないにもかかわらず夕暮れが迫っているという状況をご覧になって、この人々の空腹を満たしたいと思われ、弟子たちに食事を手に入れる方法を尋ねられました。弟子たちが手持ちの食料を数えますと、わずかに5つのパンと2匹の魚を持っているだけでしたので、弟子たちは人々の必要を満たすためには到底足りませんと答えました。

すると、イエスさまはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから人々に分け与えられました。魚も同じようにして配り、人々が欲するするだけ与えられました。すると、男だけで5000人という群衆が皆満腹し、その上、パンの残りが12の籠を満たすほどになりました。これがいわゆる5000人の給食という奇蹟です。

この後、夜のうちにイエスさまは弟子たちと共に対岸にあるカファルナウムに移られました。夜が明けたとき、イエスさまが居られないと気付いた群衆は、イエスさまを探し求めてカファルナウムにまでやってきました。

人々は口々に「先生、いつここにおいでになったのですか?」と問います。この言葉には、もしかすると、自分たちの知らない間に出発してしまったイエスさまを非難するような気持ちがあったのかもしれません。これに対するイエスさまの答えが辛辣だったのです。

あなた方は単にパンを求めて私を探しているのに過ぎないのではないか。

このときイエスさまを追ってきた人々は、病気や飢えを癒すという自分たちの肉体的な欲求を満たしてくれる者としてしかイエスさまを理解していませんでしたし、そのようにしかイエスさまを求めていませんでした。パンを昨夜与えてくれた。今日も与えてくれるに違いない。そう思ってついてきただけだったのです。

確かにイエスさまのなされた御業、奇蹟は素晴らしい業だったと思います。しかし、それはあくまでも入り口であって、その向こう側にある神さまの御心に気づくための助けとして行われた業だったのですが、今集まっている人々は、入り口だけで満足してしまって、つまりお腹がいっぱいになったということだけで満足してしまった。肉体的な満足だけを求めているのです。イエスさまが伝えようとしておられることの本質にまでは踏み込もうとしていません。

イエスさまは肉体的な飢えを満たすことを目的として人々にパンを与えられたのではありません。感謝の祈りを捧げてパンを咲き、これを与えられたのは、神さまは普通では考えられないような手段をもってしてでも、常識外れの手段をもってしてでも、この人たちのことを満たそうとしておられる、それほどに愛しておられるのだ、ということを示し、この食卓に連なること、神さまから愛されているという喜びをいただくことこそが、真の意味での満足へ至る道であると示すためだったのです。

それをイエスさまは諄々と語られました。しかし、そこまで聞いても人々はまだ理解しません。モーセの祈りによってマナを与えられた故事を引き合いに出して、あくまでも食事を求めます。満腹を求めます。肉体的な欲求を満たそうと考えています。

結局この時集まっていた人々は最後までイエスさまの御言葉の意味を理解しませんでした。少し進んで53節を読めば今イエスさまが主題としておられるのが聖餐であると気づきます。

ヨハネによる福音書第6章は全体を通して、信じてパンを食べ、信じてぶどう酒を飲む者は永遠の命を得るという、私たちの信仰の核心の部分について、つまり聖餐について語っているのです。

イエスさまは絡まった糸をほどくように話されましたが、人々は信じていただくという信仰の部分に全く気付いていません。私たちが信じてパンをいただく時、またぶどう酒をいただく時、パンとぶどう酒は私たちに永遠の命を与えるほどの力、無限の力を発揮します。

しかし、それをいただく者がその行為の本質を理解しなければ、少なくとも理解したいと求めなければ、パンとぶどう酒は無力で無意味なものになってしまうのです。

もちろん、私たちキリスト者も肉の苦しみ、飢えを軽視するわけではありません。だからこそ、飢えている人には食事を届けたいと願って、具体的な奉仕をする方々も多く居ます。飢えだけではありません。病に苦しむ人がいれば、その人を癒せるように少しでも助けになるように、何らかの働きに身を投じる人たちもいます。しかしその根底にはやはり飢えが癒され苦しみが癒されることによって神さまとの出会いを願う、そのような祈りがあるはずなのです。

カファルナウムにまで追ってきたこの人たちがしようとしていることは何でしょうか。彼らは自分たちに都合のよいようにイエスさまを利用しようとしているだけなのです。何もないところから自動的にパンをくれる機械と同じようにイエスさまを扱っているのです。それでも、イエスさまはお怒りにはなりません。そんな人たちのことも決して追い返すことはなく、根気強く語り聞かせられます。

残念なことに、私たちもともすれば、イエスさまがなされた御業の向こう側にある

大切なメッセージを見落としてしまいそうになります。私たちが信じる正しさを何とか実現しようとするために、かえって主が望んでおられないような状態を作り出してしまうことがあります。私はそれがとても恐ろしいのです。

イエスさまが望んでおられたのは、すべての人に平安が与えられること、すべての人の心が平らかで満ちたいた状態になること、そしてそういう人たちが集まって互いに愛し合って生きていくこと。そのために聖餐の卓が据えられて、そのためにこの教会がここに建てられているはずなのに、自分たちの理想を振り回して喧嘩するような人たちまでが教会の中に現れてしまう。それはとても残念なことだと思います。

自分たちの振り回している正義が神さまの正義ではなく肉の思いに過ぎず、それを振り回して殴り合ってしまう。結果、末に見えてくるのは教会の破壊でしかないということに

互いに気づいていないそのことがとても残念なのです。

そんなに考え方が違うのであれば、袂を分かてばいいじゃないか、というのが社会一般の出す答えであろうと思います。しかし、教会はそれをしません。この神奈川教区は特に、決して私たちは袂を分かたないという意志を強く表に出しています。どのような立場のものであったとしても、それを否定することなく、根気よく議論を続けていくという姿勢をこの神奈川教区は持っています。

ただ昨今の教会同士の議論を見ていると。神奈川教区の願いがいつの間にかお題目のようになってしまって、その本質が見失われてしまっているように思えてとても残念です。

私たちは決して誰かを排除したりしませんし、分離をしようともしません。

分けたところで一体何が残るというのか。分けて分けて分けて、分けて分けていけば、どんどんどんどん小さくなっていきます。小さくなる。それはつまり豊かさを失うということです。

できる限り多くの人と共に生きたい、共に恵みを分かち合いたい。そのように、私たちは願うからこそ、一見すると一緒に暮らすのはちょっと難しいかもしれないなと思うような人が相手であったとしても、その人をなんとか受け入れようとし、その人を受け入れるために自分自身も変わり、この教会を誰でもが入れる場へと成長させていくのです。それこそが私たちの祈り求めるべき教会の姿であって、私たちの目指すべき教会の姿であって、また神さまが導こうとしておられる私たちのあるべき姿なのであろうと思います。

少しずつペンテコステが近づいています。ペンテコステから始まる聖霊降臨節は教会の期節とも呼ばれています。私たちは教会の業を委ねられた者として、教会の形作る一員として、

教会の体の一部として、この群れの本質、ここで分け与えられるパンと葡萄酒の意味、そしてそれを通して神さまが何をくださろうとしているのかということについて祈り求めつつ考えていきたい。そのように願います。

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