2023年4月9日
ヨハネによる福音書 20:1-18
「主の復活」
あの恐ろしい出来事から3日が立ちました。息を引き取られたイエスさまのご遺体は十字架から降ろされ、布で巻かれて墓に収められました。まだ暗いうちにマグダラのマリアは一人で墓へと歩いています。彼女は誰よりも早く出掛けました。伝統的にはマグダラのマリアは娼婦であったと理解されています。罪深い女であると大勢の人に糾弾されていた彼女をイエスさまが赦されたので、回心し、本来の生き方へと立ち返ったという経験を持っている女性です。
多くを赦してくださったイエスさまを彼女は誰よりも深く、強く慕っていました。そのイエスさまが処刑された。彼女はイエスさまのご遺体にすがりついて泣きたかったのではないかと思います。心が千々に砕かれてしまった時、それを癒すのは涙です。彼女はイエスさまのそばで泣くために墓に訪れました。
しかし、墓の前に着いてみると墓穴に蓋をしてあるはずの石が動かされ、入り口が開いています。これを見た彼女は恐怖します。イエスさまを死なせるだけでは飽き足らぬ誰かが、イエスさまのご遺体を運び出し、どこかでご遺体に辱めを加えようとしていると思い込んだのです。
マリアはひどくうろたえます。これは自分の手には負えないと思った彼女はペトロを思い出しました。ペトロはイエスさまが裁判にかけられている時、こっそり群衆に紛れて大祭司の屋敷に入り込みましたが、「お前はあの男の弟子ではないか」と問われると「知らない、関係ない」とイエスさまを否定しました。これはそれまでイエスさまが注いでくださった愛を裏切るような行いであって、他の弟子たちからの信頼を損なうようなことをしてしまった彼でしたが、いざ誰かに頼らねばならないという時に第一に思い浮かぶのは、やはりペトロだったのです。
マリアから話を聞いたペトロは、そこに居合わせたもう一人の弟子と共に墓へ急ぎます。
もう一人の弟子は福音書記者ヨハネであると考えられています。ヨハネは12人の使徒たちの中では最も若かったと考えられています。ヨハネによる福音書の成立が紀元90年頃、つまりイエスさまの処刑の60年後と考えられていますので、この時に仮に20歳であったとするならば、80歳で福音書をまとめたということになり、辻褄は合うわけです。
ペトロは弟子たちの筆頭格ですから、それなりの年齢であると思われます。仮にイエスさまと同じくらいの歳であれば30歳前後。さすがに20歳の若者と同じスピードでは走れなかったのでしょう、もう一人の弟子が先に墓に着きました。彼は外から墓の中をそっと伺います。もしかすると、イエスさまのご遺体に危害を加えようとする者が、まだ中に居るかもしれません。警戒しつつ中をのぞく彼の目にイエスさまのご遺体を包んでいた亜麻布が畳まれて床に置かれているの様子が移ります。
一足遅れてペトロが墓に着きました。ペトロは墓穴に入って中を確認します。墓室には別段乱された様子はなく、もう一人の弟子が見付けた亜麻布と、イエスさまの頭を包んでいた布を見付けます。どうやら、誰かが墓を荒らしたわけではなさそうです。
ペトロが中に入って、墓穴の中が安全であると分かったからでしょうか、もう一人の弟子も中に入って来て様子を見ました。すると、彼はイエスさまの御復活に思い至り、確信を持ちました。
しかし、それは直観によって得られた理解でした。一方のペトロはどうかと言いますと、ペトロはまだ復活を信じるまでには至っていません。聖書には「来て、見て、信じた」と書かれていますが、これらは全て単数形で語られています。
実は救い主の復活については既に預言されており、聖書にも記されていましたが、この弟子はこの時、復活預言を思い出せませんでした。それでも、彼が信じるに至ったことは素晴らしい出来事であると思います。彼は証拠を求めることなく信仰へと至ったからです。「目に見えない、手に触れられないから神さまなんて居ない」と言うような否定的な考え方ではなく、「目には見えないけれど、手には触れられないけれど神さまは居られる」という信仰を体感によって得たからです。
確かに、大人になると何事にも根拠を求めるようになりますが、若い人や幼い人たちは体感と言いますか、感性や直観への信頼が大人よりも強いようにも思えます。疑わず、まず信じる、信じようとすることができるのは、若者の持つ特性なのかもしれません。
墓で見た光景から、それぞれに異なる何かを得て二人の弟子たちは家に帰って行きました。
墓穴の外にはマグダラのマリアが立って、一人で泣いています。彼女は弟子たちに遅れて到着したのでしょう。彼女は往復しているわけですから、遅れて当然だと思います。彼女はただただ泣きぬれているので、弟子たちが中で何をしているのかにまでは思いが至っていません。また弟子たちの方も不思議なことにと申しますか薄情なことにと言うべきか、マリアに声もかけずに帰ってしまいました。
マリアは悲しみに浸っています。それは悪いことでしょうか。彼女は一向に落ち着きを取り戻そうとはしません。それは悪いことでしょうか。結果を見ると、マリアこそ最初に復活のイエスさまに出会っています。
マリアは墓穴の中を覗き込みます。イエスさまのご遺体の置かれていたはずのところに二人の天使が居て、彼女に泣いている理由を問います。マリアは途方に暮れている理由を話します。その瞬間、イエスさまがマリアの後ろに立たれました。後ろを振り向いたマリアは誰かが立っているとは気付きましたが、涙が溢れていたために相手の顔はハッキリとは見えません。
イエスさまも重ねて泣いている理由を問われます。マリアは懇願します。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」
冷静に考えるとマリアの願いには無理があると気付きます。実際にご遺体を引き取れるかと言いますと、女性一人の体力でご遺体を受け取り、正しい場所に安置するのは困難です。しかし、そんなことは彼女には関係がありません。彼女は今、現実的な実現の可能性は置いて、まず自分の願いを言葉にしたのです。マリアの願いはイエスさまのご遺体の安全であり、御体にすがって泣くことでした。
そんな彼女の名前をイエスさまは呼ばれました。その時、マリアは気付きました。イエスさまだ。
マリアはイエスさまに返事をするように「先生」と呼びかけます。この言葉には彼女の希望がありました。十字架の上での死に至るよりも前にそうであったように、イエスさまが自分たちのそばに居てくださって、教え続けてくださる、話を聞かせてくださる、幸せだったかつての生活が再び始まると期待したのです。
イエスさまは答えられました。
「わたしにすがりつくのはよしなさい。」
イエスさまが地上で御業を行われる時は終わったのです。これからマリアが頼りにするべきはイエスさまとの過去ではなく、また過去を延長しようと試みるのではなく、今周りに居て一緒に悲しんでいる人々をこそ頼るべきであり、これから一緒に悲しみを乗り越えて共に歩む人々をこそ頼るべきなのです。
イエスさまはマリアを突き放されたのではありません。新たな喜びで満たされたのです。だからマリアはこの喜びを伝えるために弟子たちの所へと走りました。
イエスさまは御復活の朝から天に昇られるまでの50日間を弟子たちと共に過ごされます。教会の時代の準備をなさいます。そして準備が整ったら、その御業を教会に託して天に昇られます。教会は何をできるでしょう。教会はまず人の心に寄り添って思いを分かち合います。
私たちは一人ひとりの名を呼びます。その人の名を呼んで招きます。もしその人が誰かにすがり着きたいと泣いているのであれば、私たちは誰に頼るべきかを指し示します。自分が招かれていると気付いて初めて、人はイエスさまの御姿に気付きます。だから私たちは一人ひとりを認め、名を呼んで招きます。そして、私たちも招かれています。
御復活の朝、今日も主の食卓に私たちは招かれました。主は私たち全員の名を呼んで招いて下さっています。この招きにいつでも応えたい、そして主の招く声を伝えたいと思います。