2023年5月21日
マタイによる福音書 28:16-20
「派遣の大号令」
先週の木曜日は昇天日でした。昇天日とは、復活されたイエスさまが天に昇られた日です。ルカは昇天の様子について詳しく記していますが、マタイはイエスさまの昇天について直接には語っていません。その理由は、マタイが「主が共に居られる」というところにこそ力点を置いて語ろうとしたからでしょう。御復活の朝、イエスさまは墓に来た女性たちに声を御掛けになりました。新共同訳では「おはよう」と訳されていますが、かつて口語訳では「平安あれ」、文語訳では「安かれ」と訳されていました。どれかが間違いというわけではないのですが、「おはよう」だけでは、この言葉のニュアンスが分かりにくくなると思います。マタイにおいてもう一つの箇所で、この言葉が用いられています。それは5章の12節です。「喜び、喜べ」という御言葉がそれです。御復活の時、イエスさまは女性たちに「喜びなさい」と声を掛けられたのです。そして、「兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」と伝言を残されました。この御言葉に従って弟子たちはガリラヤに来ました。まだ彼らは復活のイエスさまと出会ってはいません。
ガリラヤはイエスさまが宣教の旅をなさった土地です。また、イエスさまが子ども時代を送られたナザレもガリラヤにあります。イエスさまにとってガリラヤは宣教の地であると同時に生活の場でもありました。歴史的に見ますとガリラヤはかつて北イスラエル王国の領土でしたが、北イスラエル王国がアッシリアによって滅ぼされると、アッシリアは多くの異邦人をここに入植させました。後にはこれらの異邦人たちもユダヤ教に改宗させられましたが、民族的にみるとユダヤ人の純血とは程遠い、雑多な人々が住む土地でした。弟子たちの多くもガリラヤの出身でした。弟子たちはそのガリラヤに帰り、山に登りました。
山は聖書的には重要な意味を持つ場所です。モーセが召命を受けたのも十戒を授けられたのも山でした。イエスさまは祈るためにしばしば山に昇られました。イエスさまの御姿が変わったのも山でした。その時には弟子たちにも「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という神さまの御声が聞こえました。山は神さまとの出会いの場なのです。その山で弟子たちはイエスさまと再会しました。弟子たちはイエスさまにひれ伏しました。つまりイエスさまに礼拝を捧げたのです。
ここまでを土地、あるいは場所の持つ意味に軸を据えて見てみましょう。ガリラヤという雑多な人々が生活の場としている土地でイエスさまはたくさんの人と出会い、ある人を癒し、ある人に教えられました。ここは弟子たちにとっても生活の場でした。祈るため、神さまの御声を聞くため、そしてイエスさまと出会い、礼拝をするための場である山を、生活の場であるガリラヤの中に見出し、弟子たちをそこに集められました。礼拝とは何でしょう。それは主の御言葉を聞く時であると共に、神さまからの恵みを分かち合い喜ぶ時です。主の日ごとに守られる礼拝においては、それが聖書朗読であり、説き明かしであり、また主の食卓ですが、それらは私たちの生活のそばに、中心にあるのです。
私たちの生活のそばに礼拝はあるのです。最も身近な礼拝は食前の祈りであろうと私は考えています。神さまから頂いた恵み、命を繋ぐ糧に感謝する。これこそ人間が根源的に持っている感情であろうと考えるからです。
弟子たちは礼拝を捧げました。そんな中、信じ切れない人も居ました。マタイは名前を記していませんが、それはトマスだったかもしれませんし、あるいは他の誰かかもしれませんが、一度死んだ者が蘇るという、自然の法則をひっくり返すような出来事を信じられない人が居たとしても何ら不思議ではありません。その人はイエスさまに近付くことにためらいを覚えるかもしれません。そんな時、イエスさま御自身がその人に近付かれ仰います。
「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。」
イエスさまは、あらゆる被造物に対して権能、すなわち力を及ぼされると宣言なさいました。ではその力とはどのようなものでしょう。イエスさまはガリラヤを旅される中で、どのように御力を用いられたでしょうか。一言で申しますと、イエスさまは人々に人間性を取り戻させられたのです。悪霊に憑りつかれて苦しんでいた者、病のために社会から疎外されていた者、富に縋り付く他無かった者たちに人間性を取り戻させたのです。人と人との関係の中に連れ戻し、何より神さまとの関係の中に連れ戻されたのです。それと同じことをせよとイエスさまは弟子たちに、そして私たちに命じられたのです。
イエスさまは二つの命令を下されました。一つ目は「行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」という命令です。この言葉には「行く」と「弟子にする」二つの動詞が含まれています。これらの動詞は片方が主な動詞であり、他方がそれに従属する動詞です。「弟子にする」が主な動詞で、「行く」が従属する動詞です。文字通りに訳すと「行きながら弟子とする」という意味になります。
わたしたちは普段の生活の歩みをする中でイエスさまを伝えるのです。それは特別なことではありません。ほんのちょっとした言葉や行いの中にイエスさまの御力が働くのです。それこそ、泣いている子どもの背中をさすったりポンポン叩いたりして慰めようとする私たちの手にもイエスさまの御力が、そしてイエスさまが私たちに注がれた聖霊の力が働くのです。わたしたちのほんの小さな働きを通してイエスさまは人々に働きかけ、その人が愛されている、世界がその人を愛している、神さまがその人を愛している、その人は愛される者であると伝えるのです。そして、そのイエスさまからのメッセージに気付いた時、その人はイエスさまを信じ、信仰を言い表して洗礼を受けるのです。生活をする中で、いろいろな人と出会い、関わります。それら全ての人に私たちはイエスさまを伝えるのです。
イエスさまは伝道の旅の中で誰にも洗礼を授けられませんでした。不思議だと思うかもしれませんが、それにも理由があります。洗礼は教会に託されるべき働きであったから、イエスさまは御自身では洗礼を誰にも授けられなかったのです。
ガリラヤではイエスさま御自ら人を救われました。イエスさまが天に昇られてからは、私たちが救いを宣べ伝えます。私たちの間に働く聖霊の力によって、互いの交わりの中で私たちはイエスさまを証し、人を救いへ、洗礼へと導くのです。私たちが導くのではありません。私たちの間で働く聖霊がその人を洗礼へと導くのです。これが二つ目の命令と深く関わってきます。
イエスさまは「あなたがたに命じておいたことを全て守るように教えなさい」と仰いました。これが二つ目の命令です。イエスさまが命じられたこととは何でしょう。山上の説教が大きなヒントになるでしょう。腹を立てず、仲直りをしなさい。人に悪意をもってはならない。復讐するな、敵をも愛せよ、偽善を避けよなど、いくつかの命令が記されていますが、これらは全て「神を畏れ、愛し、ありのままの自分を愛し、ありのままの人を愛しなさい」、つまり「神を愛し、人を愛しなさい」という二つの項目に集約できるでしょう。
日々の生活の中で御言葉に触れ、折々に御言葉を思い起こし、祈りを捧げ、人にやさしくする。それをこそイエスさまは求めておられるのです。そしてそのような生活を通して私たちもまた愛される者であると思い出させてくださるのです。
「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共に居る。」
マタイは、その福音の冒頭でイエスさまが「インマヌエルと呼ばれる」と記しています。これはイザヤの預言からの引用ですが、マタイだけがこれを記しています。「インマヌエル」とは、「神はわれらと共に」という意味の言葉です。神さまが共に居てくださるとご降誕の前、受肉の前に示されました。そして今、天に昇ろうとされているイエスさまが「わたしはあなたがたと共に居る」と言ってくださいました。この福音書を読む全ての人が、つまり私たちが、その歩みの最初から最後まで神さまに愛されている、神さまは、イエスさまは私たちといつも、いつまでも一緒に居てくださるという神さまは、イエスさまは私たちをいつも愛してくださっているという希望を、その事実をこそイエスさまはマタイを通して伝えたかったのです。
わたしたちは愛されています。全ての人が愛されています。そのメッセージを携えて、わたしたちはそれぞれの生活の場へと出掛けて行くのです。