2023年5月28日
使徒言行録 2:1-11
「派遣の大号令」
ペンテコステの朝を迎えました。良く「ペンテコステは教会の誕生日である」と言われます。確かにこの日を境に神さまの御業がイエスさまを信じる者たちの群れを通して行われるようになったのですから、ペンテコステは教会の誕生日であると言って良いと思います。しかし、聖霊がペトロ達の上に降るよりも前から大勢の人たちが集まっていました。使徒言行録を遡って1章15節を見ますと、実に120人ほどの人々が一つの群れとなっていたとあります。120人の群れと言いますと、日本基督教団に属するほとんどの教会の礼拝出席者数をはるかに超えています。一見、ペンテコステの前から既に教会が成立していたかのように思えますが、もしこの群れを「教会ではない。まだ教会は誕生していない」と考えるのであれば、聖霊は教会をどのように誕生させたのでしょうか。人が群れを作るという意味では、使徒言行録の前に読まれました旧約聖書の日課である「バベルの塔」の物語も、人の群れが主題となっています。みんなで仲良く集まって、一つのこと、それも少人数ではできないような大きなことをしようとしています。この点だけを見ますと、何も神さまに罰せられるような理由は無さそうにも思えますが、彼らは「さあ、天まで届く当のある町を建て、有名になろう」と言っているように、自分たちの手を天にまで、神さまの領域にまで届かせようという傲慢な心を持っていました。そして何よりも、「全地に散らされないようにしよう」とも言っています。塔を建てた理由は、自分たちが集まって住むための目印だったのです。神さまは、彼らの傲慢な心と、一つの所に集まって留まろうという考えとを問題とされたのです。
バベルの塔の物語よりも前に神さまは二度、人間を祝福されました。最初の時には「産めよ、増えよ、地に満ちよ。」と、御手を用いて創造された一組の男女を祝福され、二度目の時には洪水をくぐり抜けたノアと彼の家族を、やはり同じ言葉で祝福されました。神さまの御心は、祝福を受けた人々が全地のあらゆるところに出掛けて行って、そこで神の家族、神さまを信じる者の群れを作ることにあったはずだったのですが、バベルに集まった人々はこれを拒否するかのように一つの所に自分たちだけで住もうとしたのです。神さまはそれを問題視されたのです。
バベルに集まった人々の気持ちも分かるのです。せっかく知り合いになったのだから、ずっと一緒に暮らしたい。それは自然な発想だと思います。しかし、神さまは祝福を受けた神の民が、御言葉を携えて、方々で、神さまを知らない人たちの住む場所で福音を宣べ伝える、まさに宣教と伝道の業への出発を望んでおられるのです。
ペンテコステが教会の誕生日であると言われる理由は、まさにここにあります。聖霊が降ると、弟子たちは他の国々の言葉で話し始めました。しかも、「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っている」とあるように、弟子たちはあらゆる国、あらゆる場所で福音を宣べ伝える使命を帯びています。神さまの御業に仕える者は、この地上を旅して回り、行った先で神さまの御救いを告げ知らせるのです。
私たちは主の日ごとに教会に集まります。私たちはバベルの人々が塔を目印にして集まったのとは違って、もっと別の物を目指して集まります。それは礼拝です。弟子たちは、聖霊降臨の出来事に驚いて集まって来た人々に神さまの御業を語りました。そしてペトロはこの不思議な出来事の意味とイエスさまの栄光を語りました。ペトロの言葉を受け容れた人々は洗礼を受け、使徒の語るイエスさまの教えを熱心に聞き、互いに交わり、パンを裂き、祈りを捧げました。これは礼拝です。聖霊を受けた人々はまず礼拝をしたのです。使徒の教え、相互の交わり、パン裂き、そして祈り。この礼拝こそが私たちが集まる時の目印であり、同時に出発点なのです。
この礼拝で私たちは聖書の御言葉を聞き、主の食卓を囲んで互いに交わり、パンを分かち合います。この時に頂いた恵みを携えて、祈りによって励ましあい、祈りによってこの世へと出掛けて行くのです。そして、出掛けて行った先で出会う人々に、礼拝を通して頂いた恵みを分かち合うのです。
人は一人ひとり違います。同じキリストに仕える者同士であっても違いがあります。当たり前です。同じ御言葉を聞いても、そこから受ける恵みが違います。それも当たり前のことです。あなたの心に響いた御言葉は、あなたのために特に用意された御言葉だからです。それと同じように、私たちは出掛けて行った先で出会う人のために、特にその人のために用意された御言葉を携えて出掛けます。そんなことが出来るでしょうか。私たちは他者をそこまで深く理解できるでしょうか。私たちには出来なくても、神さまにはお出来になります。ルカを通して「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」とイエスさまが語られたように、私たちが願う時、神さまは私たちの内に聖霊を働かせてくださいます。私たちが心配せずとも、神さまの御霊が御自ら働いてくださるのです。今日はその聖霊が与えられた日なのです。
私たちは礼拝を目指して教会に集まります。私たちは、自分たちの心にある願いをかなえるために集まるのではありません。神さまの御心によって、神さまの御心を聞き、神さまの御心を行うために集まり、神さまの御心によって示された場所へ遣わされるのです。
今日、私たちに聖霊が注がれました。この聖霊の導きに従って出掛けましょう。