復活節第5主日礼拝説教

2023年5月7日

ヨハネによる福音書 15:12-17

「主イエスの掟」

今、私たちは過越しの食卓を主と共に囲んでいます。先ほど読まれました箇所は、ヨハネによる福音書13章から続く、主の食卓で語られたイエスさまの御言葉です。主は私たちの足を洗い、食事を共にし、そこで語られました。

「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」
「真理の霊があなた方と共におり、これからも、あなた方の内にいる。」

続けておっしゃいます。
「わたしがあなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」

この掟は新しい物だったでしょうか。聖書は常にこれを教えていました。決して新しい掟ではありません。それが今、御子の口から改めて告げられた時、新しい掟として私たちに与えられるのです。なぜならば、主イエスは愛の及ぶ範囲を、あまねくすべての人々に広げられたからです。

それまで救いは、神の愛はあくまでも割礼を受けた者たちのみに与えられるものとして解釈されてきました。神の民として生きる意志を自らの行為によって示した者にのみ与えられるものであると、考えられてきました。律法に従う生き方によって、人は救いに至ると考えられてきたのです。

しかし神の御子は、まず私たちを愛してくださいました。まず私たちを受け入れてくださいました。私たちが主を愛したから、私たちが主をお招きしたから私たちは主の愛を受けるのではないのです。最初に主が私たちを愛し、私たちを招いてくださったのです。それと同じように、今度は互いに対してしなさいと仰います。

愛するということは、相手を受け入れるということをも意味します。私たちは一体どれほど互いを受け入れることができているでしょうか。

課題を持つ親子関係を時々目にします。その中で、親の子どもへの愛情表現が上手でないために起こる問題が時々あります。親が自分の思い描く幸せを子に与えたいと願い、子どもはそんな親の思いに応えて生きたいと願い、その通りにしようと努力した結果、どこかで歪みが生じてしまう。そのような親子関係は少なくありません。ここにある互いの感情は本当に愛なのでしょうか。それは実は単に執着に過ぎないのではないでしょうか。

これと同じような構造は、私たちの周囲で頻繁に起きているように感じます。ある人が考える“正義”や“原理”を他者に伝えようとする。その時に相手の歩みと自分の歩調の違いに気付けず、理解を得るという過程をすっとばしてしまう。それによって、遺恨が生じる。このような“負の結果”は本来生じる必要の無いものなのです。しかし、この種のすれ違いは頻繁に起きています。

理解してもらうためには、まず相手を理解することが大事であると私たちは知っています。知ってはいるのですが、それがなかなかできないのです。相手の考え方や立場に立って物事を見られれば摩擦を回避できるのですが、それが困難なのです。なぜ困難なのか。それは、私たちの視野が狭いからです。自分の言葉、自分の考え、自分の立場に固執してしまうからです。捕らわれてしまうからです。イエスさまはご自身の立場に固執なさったでしょうか。フィリピの信徒の手紙にはこう書いてあります。

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」

自分の立場への執着、それは我です。御子イエスはご自身の命を捨ててまで、私たちを受け入れてくださいました。主は私たちのために死んでくださった。今、主は私たちに「自分の命を捨てよ」とおっしゃっています。私たちも死ななければならないのでしょうか。そうではありません。ここで主はψυχήを捨てよとおっしゃっています。これは確かに命、あるいは霊と訳される言葉ですが、それは感情の座、欲求の座としての命や霊を表す言葉でもあります。つまり、ここで主は自分の欲求、我を捨てなさいとおっしゃっているのです。

私たちが「正しい」と思っていることのどれほどが本当に正しいのでしょうか。本当は単に我を張ろうとしているに過ぎないのではないでしょうか。その我を捨てなさいと、主はおっしゃるのです。我を捨てられれば、私たちにも大きな愛を行える、我を捨てられれば、より多く受け入れられる、愛を示せると主は教えてくださるのです。そして私たちがそれをしようとする時、主は私たちを僕ではなく、友と呼んでくださるのです。

身分制度が、少なくとも法的には無くなった現代日本にあっては、僕を友と呼ぶということがどれほど驚くべきことかということへの理解が難しいかもしれません。私たちは、例えそれが大富豪であろうと、政治家であろうと、根本的なところでは同じ人間であると理解しているからです。古代社会においては、貴族が居て、市民が居て、平民が居るという身分の違いが当たり前で、彼らの間には壁がありました。主人と呼ばれる人が僕を友と呼ぶためには、驚くべき飛躍が必要でした。

君主制国家においては、主従関係こそが社会の構造そのものです。王に仕える者は、それが政治家であろうと将軍であろうと、あるいは身の回りの世話を行う召使であろうと、王と主従の関係に置かれ、王が必要を認める時に呼ばれ、王が必要を認めない時には会えませんでした。ただ、王にも友が居ます。王都の会話が特権として許されている人々でした。イエスさまは私たちを友と呼ぶと言ってくださいます。私たちはイエスさまに遠慮なく近付き、話しかけて良いのです。私たちがイエスさまに話かける時、イエスさまは私たちを神さまに引き合わせてくださいます。神さまとの間にも親密な関係を結ばせてくださるのです。王の友が持つような特権を私たちに与えてくださるのです。

この特権を与える相手として、イエスさまは私たちを選んでくださいました。

この特権は私たちがその中でぬくぬくと生きるために与えられたわけではありません。主は私たちを遣わされます。その目的を私たちは知っています。理解しています。それは、全ての人が「イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるため」です。全ての人を神の家族として迎え入れ、受け入れるために私たちは召し出されています。これこそ私たちが結ぶべき実です。この実を結ぶために私たちは遣わされるのです。その時、私たちは決して僕として、奴隷として遣わされるのではありません。イエスさまと共に働く者として、友として私たちは遣わされるのです。

この働きのために必要な物は全て父が用意してくださると主は約束してくださいました。私たちが願うものを与えてくださると約束してくださいました。では私たちは一体何を、どのように願うべきなのでしょう。

「あなたの御旨をなしてください。そのために必要なものをお与えください。」
こう祈るのです。

私はとても面白いと思うのです。なぜならば、私たちに必要なものは既にイエスさまによって、示され、与えられているからです。また、それは命令としても与えられています。それこそ、愛です。その人を受け入れられる心を持てるようにと私たちは願うのですが、愛を願う祈りが求められてもいるのです。

受け入れるためには、決め付けてはいけません。色分けや、諦めも。決め付けや色分け、諦めを避けるために私たちは我を捨て去り、ただ愛せますようにと、祈り、求めるのです。

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