2023年6月11日
使徒言行録 2:37-47
「神の約束と人々のこたえ」
聖霊降臨の朝、弟子たちは聖霊を受け、それぞれが違う国の言葉で話し始めました。これを見た人々は、弟子たちが酒に酔っているのだと誤解しましたが、ペトロはそうではないと説明しました。これがペトロの最初の説教でした。この説教は最初の方こそ、誤解に対する説明でしたが、途中からはナザレのイエス、つまり私たちの愛するイエスさまについての宣教、福音の宣教へと展開し、これを聞いていた人々の心を動かしました。聴衆の心は二つの方向に動かされたはずです。「あなたがたはイエスさまを十字架につけて殺してしまった」という罪の告発と、「神さまは、そんなあなたたちのためにイエスさまを救い主としてお遣わしくださったのだ」という赦しの宣告によって心を激しく動かされました。
聴衆はペトロを始めとした使徒たちに「兄弟たち」と呼び掛けます。ついさっきまで「あの人たちは新しい酒に酔っているのだ」と馬鹿にしていた人たちが、手の平を返したかのように「兄弟たち」と言うのは少々図々しいような印象も受けますが、この変化こそがペトロの説教の影響であり、狙いであったと言えます。
29節ではペトロが聴衆に「兄弟たち」と呼び掛けています。ペトロにとって、自分の話を聞いている人々は他人ではなかったのです。彼は自分を高みに置いて人々の罪を裁こうとしていたわけではありません。むしろ、自分も一番大事な時にイエスさまを知らないと言った、イエスさまを否定したという意味では、今彼の話を聞いている人々と同じ立場だと思ったから「兄弟たち」と呼び掛けたのです。聴衆はペトロの心に突き刺さった痛みに引き寄せられ、自分たちも罪深さに気付かされました。そしてペトロは人々の心を突き刺すだけではなく、救いをも述べました。「神さまはイエスさまをあなた方の飼い主、あなた方を救う方とされたのです。」
救いの宣言に対して人々は「わたしたちはどうしたらよいのですか」と問います。この問いは重要な意味を持ちます。どうにかして、救いの宣言に答えたいと願いました。しかし彼らにはどのようにすれば答えられるか分からなくて、ペトロに問いました。誰かに問うということは、自分の内には答えが無いという自覚と、その告白を意味します。自分の力では歩むべき道を見付けられないと悟った聴衆は、使徒たちに道を問いました。ペトロは答えます。「悔い改めなさい。」
悔い改めとは考えを改める、生き方の方向を変えるという意味です。ペトロの説教は聴衆に重大な示唆を与えていました。聴衆のほとんどはユダヤ教徒です。生粋のユダヤ人も居れば、ユダヤ教に改宗した人々も居ます。つまり、彼らは聖書を知っている人々です。しかし、彼らは聖書に親しんでいるにも関わらず、その聖書が伝えようとしていた救いについて理解せず、ついには聖書を知らない人々、つまりローマの兵士たちの手を借りて救い主を十字架につけてしまったと告発しています。
ユダヤ人たちは自分たちの行為を正しいと信じ切っていました。そうでなければ恐ろしくて人を死に追いやれるわけがありません。自分たちの正しさに疑問を持たなかった結果、イエスさまを十字架にかけてしまったのです。その生き方を、自分の信念を盲信する生き方を変えろとペトロは言うのです。正しさは、人間の心の内には存在し得ないから。
考え方や生き方を変えるというのは難しいことです。恐ろしいことです。自分の行為や考え方を否定すれば、自分自身の依って立つところが崩壊してしまいかねませんから。しかし、考え方や生き方を、「道を行く歩み」と捉えるならば、ハードルは多少なりとも下がるのではないでしょうか。
人生の歩みは自動車の運転とも似ているのではないかと思います。ハンドルを握るにあたっては「かもしれない運転を心掛けましょう」と言われています。例えば「前の車はもしかしたら止まるかもしれない」ですとか、「あの物陰から人が出てくるかもしれない」と、常に「かもしれない」と考えて慎重に運転すれば、状況に応じてブレーキを踏んだり、ハンドルを切ったりして事故を防げるというスローガンです。「これはこうあるべきだ」「これが正しいはずではないか」と固く考えて真っ直ぐ走ることにこだわるのではなく、「自分の歩みが誰かにとっては痛みを生じさせる結果になるかもしれない」と、意図せぬ影響の可能性を意識していれば、一度立ち止まって違う道を模索するのも難しくは無くなるのではないでしょうか。向こうから車が来た、このまま前進してもすれ違いは難しそうだ。であれば、いったん後ろに下がって道を譲っても良いのです。
ペトロの説教は人々に立ち止まる機会を与えました。そして今、彼らはこれまでと違う道を求めています。「これが当たり前だ」と突き進む歩き方を捨て、どうすれば良いのかと立ち止まって考え、答えが見付からないことに気付き、助言を求めています。その意味で、ペトロの助言の第一である「悔い改め」は実現しています。続けて「めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。」と勧めます。
洗礼には様々な意味がありますが、悔い改めの表現でもあります。洗礼者ヨハネは悔い改めた人々をヨルダン川の水に浸けて罪を清めていました。今、ペトロは人々にイエス・キリストの名による洗礼を勧めています。洗礼はそれを受ける者に罪の赦しと、罪に対しての死を体験させ、またその死から引き上げられて救い主と結び合わされる体験をさせます。イエス・キリストの名によって洗礼を授けられる時、私たちはこの体験を、イエスさまの御手から受けるのです。イエスさま御自身が、私たちに洗礼を授けてくださるのです。洗礼を受けるその時、私たちはイエスさまと結び合わされるのです。イエスさまは御手を伸べる相手を選びません。全ての人に御手が伸ばされています。誰でも、イエスさまの呼び掛けに応えて伸ばされる御手と自分の手を繋いで良いのです。
この日、3,000人もの人々が洗礼を受けました。これほど多くの人たちの心が一つにされ、イエスさまの呼び掛けに応えました。この人々が次にしたこととは何でしょうか。
人々が集まると、そこで教えが語られ、互いに交流し、パン裂きをしました。このパン裂きは愛餐と聖餐の両方の原型です。後に愛餐と聖餐は機能が分けられましたが、教えとパン裂きの二つが揃って礼拝であったのと同様に、今でも聖書の朗読、説き明かしと聖餐は二つが揃って礼拝です。
聖餐のパンを分かち合うたびに私たちは主イエスが私たちの罪を負って死んでくださったことを思い起こします。パンを頂き、ぶどう酒を飲むごとに、私たちは罪深い者ではありますが、それでもなお赦してくださるという恵みを味わい、これによって自らを悔い改め、その救いにいかにして答えるべきかを問い、自らの正しさによってではなく主の正しさに依り頼んで歩むという、実にシンプルな答えを見出し、その一歩を改めて踏み出すという応答をするのです。
私たちは世の人々に呼び掛けをします。その時、「兄弟たち」と呼び掛けます。ペトロは説教をするに際して自分を取り繕いませんでした。自分の痛みをも明らかにすることで聴く人々と同じ立場に立ち、その上で間違いを間違いとして指摘し、変化すべきであると訴えました。この率直な姿勢に人々は応え、イエスさまの聖 名によって一つの群れとされました。私たちもまた、このペトロの姿に倣って、世に呼び掛けます。痛みを知る者として、世に呼び掛けるのです。