聖霊降臨節第4主日礼拝説教

2023年6月18日

使徒言行録 4:5-12

「キリストの名こそ」

私たちの足元には大きな石があります。この石のある場所は傾斜地です。傾斜地というのは人間にとっては少々使い勝手の良くない土地です。田畑にするにも、何かを建てるにしても、そのままでは崩れて、下に滑り落ちてしまう恐れがあり、不安定だからです。しかし、この大きな石が傾斜地で踏ん張っているので、この上に建てられた建物は滑り落ちたり崩れてしまったりしません。私たちの救いは、この石の上に建てられているのだと、ペトロは言います。

これはペトロの弁明です。ペトロは議会の尋問を受けていました。逮捕されてしまったのです。何をして逮捕されてしまったのか。別に悪事を働いて捕まったというのではありません。むしろ良いことをしたがために捕まってしまったのです。ペトロは神殿にある「美しい門」の前に座っていた足の不自由な男の人を癒し、自由に歩いたり踊ったりできるようにしました。

この出来事に驚いた民衆がペトロたちの周りに集まって来たので、ペトロはこの男の人を歩けるようにしたのは自分たちの力ではなく、主イエスの力によるのだと説きました。イエスさまがどのような方で、なぜ十字架に付けられなければならなかったのかを説き、イエスさまによってこそ、私たちは救われるのだと語って聞かせたのです。

この時、集まった人の数はとんでもない人数でした。二人の話を聞いてイエスさまを信じるようになった人は5,000人にも上りました。それほどの人々が集まっていたのですから嫌でも目立ちます。神殿での祭儀を司っている祭司たちや管理者たちも騒ぎに気付きます。

この騒ぎは神殿に仕えている人々、つまりサドカイ派の祭司たちや神殿の主管たちにとっては大変不愉快でした。ほんの数か月前に自分たちが捕え、処刑した人こそが救い主であると言うのですから不愉快にならざるを得ません。しかも、その中心に居る連中は実際に救いの力を発揮したと言うのです。このままでは自分たちの権威が失われ、この連中に持って行かれてしまう。そう心配した祭司たちはペトロとヨハネを逮捕してしまいました。

翌日になると祭司たちの主だった人々が集まり、ペトロとヨハネを法廷の中心に立たせて尋問します。「お前たちは何の権威によって、誰の名によってこんなことをしたのか。」

ペトロは、自分に対して反感を持つ人々に、それも社会で権威を持つとされる人々に取り囲まれて、咎められているのです。もしも私がペトロの立場に立たされたならば、恐れて何も言えなくなってしまうのではないかと思います。今、目の前に居て自分たちを取り調べようとしている人々は、かつてイエスさまを処刑した人々です。自分もそうされてしまうかもしれないのですから。あるいは怒って祭司たちに食ってかかるかもしれません。

「こんなこととは随分な言われようじゃないか。私達がしたのは、歩けなかった人を自由に歩けるようにしたという、ただそれだけではありませんか。どう考えても良いことでしょう。咎められる筋合いはありません。それとも、人を癒すのは悪いことだとでも言うのか。」

このように言うでしょう。しかしペトロは相手を悪者だと決め付けるような言葉を選びませんでした。ペトロを満たしたのは怒りではなく、聖霊だったからです。

ペトロは聖霊によって語り始めました。

「民の議員、また長老の方々、今日わたしたちが取り調べを受けているのは、病人に対する善い行いと、その人が何によっていやされたかということについてであるならば、あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。」

相手の立場に敬意を払った上で、丁寧な言葉遣いで、落ち着いた姿勢で、話を聞いてくださいとお願いしています。

「私がそれを行ったのは、ナザレのイエス、救い主イエス・キリストの名によってなのです。この方こそ、『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』なのです。」

ペトロが用いた言葉は、かつてイエスさまがご自身を例えられた時に用いられた詩編の言葉でした。

かつて神殿を建てる際に山から石が切り出され、都へと運ばれて来ました。立派な石で神殿を建てようとしたのですが、中にはわざわざ運んだにも関わらず、使えないと判断された石もありました。その石はあまりにも大きく、大工たちは使い道が無いとして谷の傾斜地に捨ててしまったのです。

ところが、神殿を建てる時には捨てられたこの石が、今では都の城壁を支える礎となっています。この石がどっしりと支えているから、都全体が、神殿も含めた都全体が谷間に滑り落ちずに済むのです。

ペトロは、かつてイエスさまが御自身を言い表すために用いられた比喩を、そのまま用いて自分たちが何をしているのかを説明しました。その時、イエスさまは御自身が都の外に連れ出され、投げ捨てられてしまうけれども、それによってかえって都に住む神の民を支えるものとなると予告なさいました。この当時、その御言葉、その例えの裏にあるイエスさまの真意に気付いた人がどれほど居たでしょうか。

物事には、見える部分と見えない部分があります。人によって見る部分が違うのですから、一つの物事であっても見え方は人それぞれ違って当たり前なのです。だからこそ、その物事について話し合う時には「私にはこう見えている。あなたにはどう見えていますか。」と互いの見え方を確認しあって議論を進める必要があります。これが丁寧な議論の進め方です。ですが、このプロセスを省いて断定的な発言をすると、それが誤解を招きかねません。それは誰をも幸せにしません。

誤解を含んだまま議論を進めていくと、どこかで誰かが傷付いて、その事柄に関わり続けられなくなってしまいかねません。そうでなくとも、相手の心に反感を生んでしまうのです。しようとしていることが正しければこそ、丁寧に話を進めていかなければもったいないのです。本来そこで負の感情が生まれる必要は全く無いのですから。だからこそ、誤解を生まないように、一つ一つの事柄について、相手の話も聞き、気持ちや考え方を理解し、丁寧に話を進めなければならないのです。

それは決して楽ではないと思います。時間も労力も気力も、たくさん費やさなければなりません。せっかくの良い事柄を支えている土台が「誤解」という極めて不安定な石であっては、元も子もなくなってしまうかもしれない、それを避けるためには互いへの理解が必要となるのです。相手を理解させるのではなく、まず相手を理解する必要があるのです。

パウロは、「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊した。」とエフェソの信徒にあてて書いています。パウロは、イエスさまが十字架の上で死なれたことによって、イエスさまは裂かれたご自身の肉によって、敵意で隔てられた二つの人々を一つになさったと書いているのです。

私たちはこの裂かれた肉にあずかる事ができます。それは、私たちのために裂かれたパンです。このパンが私たちを一つにするのです。十字架の出来事によって裂かれたこのパンを頂くから、私たちはそれぞれに違う体を持ち、それぞれに違う思いや考えを持っていても、一つなのです。私たちはそれを信じられるはずです。信じているはずです。

ペトロは今日この十字架の出来事について、「あなたがた家を建てる者に捨てられた」と表現しています。ペトロは自分の思いや考えではなく、イエスさまの聖名を語りました。イエスさまこそ、私たちを支える「隅の親石」なのです。イエスさまが私たちを一つにし、イエスさまが私たちを支えて下さっているのです。教会は、私たちに託された働きは、この石の上に建てられているのです。

私たちが愛の業を、教会の業をなそうと願い、努める時、そこに集まる全ての人々はイエスさまの聖名によって集められ、イエスさまという土台の上で一つにされた人々なのです。そこにはあなたとは違う見方をする人も居るでしょう。違う考え方をする人も居るでしょう。でも、その人はあなたと敵対する人ではないのです。その人を論破する必要はありません。その人も、あなたと同じ土台に、大きな石の上に立つ人なのです。その人はイエスさまがあなたと一緒にしてくださった人であって、あなたに新しい視点を、あなたが今持っていない視点を分かち合ってくれる人なのです。あなたに力を分け与えてくれる人なのです。そしてあなたもその人に視点を分け与え、力を分け与えているのです。

  自分と違うやり方や考え方に触れる時、多くの人が示す最初の反応は反発です。「それは違うだろう」と咎めたくなってしまいがちです。しかし、目的意識さえ共有できていれば、その人はその人に与えられた方法を用いて目的を果たそうとします。それは役割の違いと言い換えても良いでしょう。方法の違いが誤解となってしまわないように、互いの良さを打ち消してしまわないように、互いに信じあえるように、互いに、互いの思いを聞き合いましょう。それを、あなたから始めましょう。人はついまず自分の考えを言いたくなっちゃいますけど、そこは少しだけこらえて。聞いた後は、今度は聞いてもらいましょう。聞いてもらえる言葉で話しかけましょう。きっとできるはずです。イエスさまが私たちを支えて下さるのですから。

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