2023年6月25日
使徒言行録 8:26-38
「一人ひとりへの福音」
最初の教会はユダヤ人キリスト者たちによって構成されていました。ユダヤで生まれ育った生粋のユダヤ人も居ましたし、ギリシャ語を話すユダヤ人、つまり外国で育ったユダヤ人も居ましたが、基本的には皆、ユダヤ人であったわけです。ユダヤ人とはつまりユダヤ教徒であり、律法の民であると言えます。しかし今日、ついに福音がユダヤ人ではない人にも宣べ伝えられ、受け容れられました。フィリポはギリシャ語を話すユダヤ人です。彼は使徒たちによって教会に集う人に食事の世話をするために執事として選ばれた人物でした。しかし彼は必ずしも生活のための奉仕だけを行っていたわけではなく、方々で福音を語ってもいました。
その日、天使が彼を導きました。天使は都エルサレムから海沿いの町ガザへと至る道に行けと言うのです。エルサレムは標高800メートルの丘の上にある町ですから、ガザへと至る道は平坦ではなく下り坂です。聖書には寂しい道と記されていますが、この道は荒れ果てた道でもありました。そんな所で何をしろと天使は言うのでしょう。フィリポは疑問に思うことすら無く出掛けて行きました。
ちょうど同じ頃、この道を一台の馬車が走っていました。乗っていたのはエチオピアの高官です。この場合のエチオピアとは、現在のスーダンにあった王国で、ヌビア人の国でした。この国は代々女王によって統治され、この女王はカンダケという称号で呼ばれていました。おそらく女性の君主に傍で仕える者として、間違いを犯さぬよう、重要な職に就く者には宦官となるよう義務付けていたものと思われます。
彼は神さまを信じる者でもありました。「エルサレムに礼拝に来て」と書かれていますが、彼は巡礼のために遠くアフリカからエルサレムを訪れた帰り道だったのです。彼は旅の間に読む書物として、イザヤ書の巻物を持って来ていました。彼は旅の友として、神さまの御言葉を選んだのです。つまり、イザヤ書は彼にとって、今回の旅のテーマだったのです。
この道は荒れた道でした。当時の馬車は今の自動車と違って衝撃を吸収するような機能を持っていませんから、相当に揺れたはずです。巻物を読むのはかなり困難だったと思われます。その上、当時の書物の読み方としては、音読が基本であったと考えられていますので、馬車の上での読書はさらに私たちが電車の中で本を読むようにはいきません。それでも彼は神さまの御言葉に親しみつつ旅をしていました。
彼の乗った馬車がフィリポとすれ違った時、神さまの霊がフィリポに語り掛けます。「いますれ違った馬車を追いかけよ。そして、共に歩め。」
フィリポは急いで馬車を追いかけました。すると、馬車の中から聞こえる声は、イザヤ書を朗読する声であると気付きましたが、この時フィリポが聞いたのは単に聖書が朗読される声ではなく、すれ違った人の旅のテーマ、人生のテーマだったのです。
フィリポは宦官に声を掛けましたが、これはいささか不作法であるとも思えます。宦官は外国の高官であり、当時の感覚としては庶民がこちらから直接声を掛けて良い相手ではありません。また、声の掛け方としても、いきなりその人の人生のテーマに関わる質問をしているわけですから、やはり礼を失すると思われても致し方ありませんが、フィリポは臆することなく問いかけます。
「読んでいることを理解できますか。」
宦官は驚いたかもしれませんが、説き明かしが必要であると答えました。そして、フィリポを馬車に招き入れ、座るように頼みます。本来であればフィリポは身分違いの者ですから、フィリポには馬車の外に立って話させ、自分は馬車の中に座って話を聞くというのが、当時としては常識的な応対であったと思いますが、宦官はフィリポを馬車に乗せて、椅子に座るように頼みました。座れと命じたのではなく、座ってくださいと頼んだのです。宦官は自分と比べるとみすぼらしい身なりでしかない男に権威の座、教えを説く者の座に就いて欲しいと願ったのです。
ここで私たちは注意深く聖書を読まなければなりません。誰が権威を持っているのでしょうか。その権威は決してフィリポ個人が持っているわけではありません。彼は主の天使に導かれ、神さまの御霊に命ぜられて宦官の歩みに付き添い、働きかけたのです。権威を持つのは、神さまの御霊なのです。
宦官の馬車から聞こえて来た聖書の箇所は、イザヤ書の53章の7節と8節でした。この箇所では「苦難の僕」と呼ばれる人物についての預言が語られています。苦難の僕は人々に見捨てられる苦しみ、痛み、病を知っていました。彼は苦しむ人々の病と痛みを自分の身に負い、刺し貫かれ、打ち砕かれましたが、人々に代わって彼が苦しみによって、彼の受けた懲らしめによって人々に平和が与えられました。7節から8節では、苦難の僕が屠られる仔羊のように従順に、従容として、その身に苦しみを負いました。
宦官は、この「苦難の僕」が誰であるのかを理解できずに居ました。もしかすると、全ての人がこの苦しみを受けるべきであるとイザヤは言っているのだろうか、自分も苦しみを甘んじて受けなければならないのだろうかと悩んでいたのです。
フィリポはこの箇所を通して、イエスさまが方々の町でなされた不思議な御業の数々と、語られた教えとを説いて聞かせ、ついにイエスさまは人々の罪を全て背負って十字架に疲れたのだと告げ知らせました。
イエスさまは、相手が誰であろうと分け隔てせず、むしろ人々から蔑まれている者、罪びとであると遠ざけられている者をこそ御傍に招かれる方であると、いま語られました。
宦官は律法を敬う者でしたが、彼は律法を信じる者、ユダヤ人の交わりの中には入れませんでした。何故ならば、律法は、つまり申命記は23章において宦官は主の会衆に加われないと厳格に定めていたからです。彼は神さまの御言葉を、救いを求める者であったにもかかわらず、神の民の交わりに加われずに居たのです。その彼に、イエスさまは彼を神の民の交わりに招かれると宣言されました。
彼はただちに洗礼を受け、キリストによって新たに生きる決意をしました。洗礼は水を介して罪に対する死とキリストによる新たな命を体験する行いです。宦官はイエスさまの救いと洗礼が分かちがたく一つになっているということと、救い主イエスさまの福音は律法と違って彼を拒絶しないこととを理解し、洗礼を求めました。
水のある場所に来ると宦官は問います。「ここに水があります。洗礼を受けるにあたって、妨げとなりうるものが何かあるでしょうか。」これは信仰問答です。この問いに対するフィリポの答えは、新共同訳が採用した底本には記されていないため、使徒言行録の最後のページに記されていますが、彼は「真心から信じておられるなら、差支えありません。」と、答えると同時に更なる質問をしています。すると宦官は、「イエス・キリストは神の子であると信じます」と答えました。
宦官が自らの信仰を明らかに告白しました。フィリポは彼と共に水の中に入り、洗礼を授けました。
この物語には最初から最後まで聖霊が関わっています。聖霊を通じてなされる神さまの介入が、それも人の命、人の霊の生き死にに関わる重大な介入がなされる様子が描かれています。聖霊の働きによって主イエスを証しする者は福音を必要とする者と出会いました。宦官は律法によって遠ざけられ、彼は希望を求めていながらも彼には絶望しか用意されていませんでしたが、証しを通してイエスさまと出会い、福音の内に招かれ、彼を招く声に応えて信じる者、救われた者となりました。
洗礼は聖霊の働きによってなされる不思議な業です。ほんの一瞬の出会い、すれ違う程度の出会いですら、聖霊はそれを用いて人を救おうとします。
伝道師時代に不思議な体験をしました。その出来事は私に神さまの霊は確かに働くのだと確信させました。発端は、二人の相談者による訪問でした。彼らのお母さんが今、施設で暮らしているのだけれども、つい先日余命宣告を受けたというお話でした。お母さんは学生時代をキリスト教主義の学校で送り、教会にも通っていたのだそうです。結婚してからは嫁ぎ先が仏教の家であったこともあって、教会には通えなくなっていたけれども、余命宣告を受けて「何かしたいことがあるか」と質問してみると「教会に行きたい」と答えたのだそうです。
その次の日曜日に、彼女は子どもたちに連れられて礼拝に出席されました。それから数日後、二人の兄弟が再び相談に訪れました。「母に洗礼を授けて欲しい」と願い出たのです。
詳しく話を聞きますと、お母さんは既に昏睡状態にあるのですが、前々から受洗を希望する言葉が出ていたので、お願いに来たとのことでした。主任牧師と私は、とにかくお見舞いをすることとしましたが、道中私は内心少し不安でした。もし本人の口から信仰を告白する言葉を聞けなかった場合はどうすれば良いのか、考えをまとめきれなかったのです。しかし、それは杞憂でした。お部屋に入って、主任牧師が彼女の耳元で「イエスさまを信じますか」と尋ねると、それまで眠っていたはずの彼女が大きな声で、部屋に居る誰もが分かる明瞭な声で、「はい」と答えたのです。
牧師は時を移さず洗礼を施し、彼女はイエスさまの弟子となりました。そして、その三日後、彼女は天に帰りました。
彼女がキリスト者として生きた日数はほんの三日間です。その間に主日が挟まれていましたが、キリスト者として礼拝に与る機会はありませんでした。しかし、それでも彼女の生涯が聖霊に導かれ、イエスさまと共に歩む人生であったことは疑う余地がありません。出会いはほんの一瞬であったかもしれませんが、その出会いは聖霊によって導かれた出会いでした。その同じ聖霊が私たちの教会をも満たし、私たちを導かれるのです。
その時、その時の人の巡り合わせは神さまによって導かれ、実現されます。それは、私たちの目にはすれ違う程度の出会いとして映るかもしれませんが、何気ないような、些細な出会いもまた福音との決定的な出会いとなり、一人ひとりを救うのです。
その出会いがいつ訪れるかは聖霊が教えてくれます。その時を聖霊が教えてくれます。聖霊の導く声が聞こえたならば、恐れず、導きに従って歩みたいと願います。