聖霊降臨節第2主日礼拝説教

2023年6月4日

使徒言行録 2:22-36

「私たちは皆証人です」

聖霊が降ると弟子たちは口々に神さまの偉大な御業について語り始めました。彼らが知るはずもない外国の言葉で話しているので、これを聞いていた人々は驚きましたが、中には「あの人たちは酔っぱらっているのだ」と笑う人たちも居ました。そこでペトロは他の弟子たちと共にたち立ち上がり、大きな声で「自分たちは酒に酔っているわけではないのだ」と話し始めました。彼はまず旧約の預言書のひとつであるヨエル書を引用して、その預言に基づいて自分たちの身の上に起きていること、これまで自分たちが見聞きしてきたことの向こう側にある真実、さらにはこれを聴いている人々にとってそれがどのような意味を持つ出来事であるのかを語ります。

ヨエルは神さまの霊が注がれると、あらゆる人々が、若者であろうと年配の者であろうと、あるいは女性であろうと男性であろうと神さまの御言葉を語るようになると預言していました。ペトロは自分たちが今、不思議な状態になっているのは神さまの霊が注がれたからであって、それは預言の成就であると説明します。

「あなたがたの間で行われた奇跡と」とあるように、ペトロは聴衆の多くがイエスさまのなさった奇蹟を知っていることを前提として語っています。エルサレムの都に居る人の大部分がイエスさまのお受けになった裁判と、それに続く処刑について知っていたはずです。都全体を揺るがすほどの大きな出来事でしたので、野次馬のように見物した人も少なくなかったでしょうし、あまり関心を示さなかった人の耳にもイエスさまがどのように捕らえられ、裁判でどのように振舞われ、十字架の上で何をなさったのかなどについての情報は入っていたはずです。

イエスさまが十字架につけられる様子を見に来ていた人の多くが、それは罪を犯した結果であり、当然の報いであると考えていました。しかし、ペトロはこの出来事を、神さまが予め定められていた計画によって起きたのだと述べます。

これはペトロの最初の説教でした。最初の説教で、ペトロはイエスさまの御受難について語り始めたわけですが、語りながらペトロは辛かったはずです。何故ならば、イエスさまが御苦しみをお受けになったその時、ペトロはイエスさまから逃げ出し、挙句にはイエスさまとの関係を否定したという事実を思い出さざるを得なかったからです。

イエスさまが捕らえられた時、彼は逃げ出してしまいました。イエスさまが大祭司の屋敷に連行された時には、ペトロは未練がましく集団の後をついて行き、屋敷の庭に入り込みました。火に当たっている時、「あの男の弟子ではないか」と詰問されると「あんな男は知らない」と、三度も否定してしまいました。御受難について語ろうとすれば、あれほど自分を愛してくださっていたはずのイエスさまを否定してしまったという苦い出来事をイヤでも思い出してしまいます。ペトロは、その辛さを敢えて味わいながら、説き明かしをしているのです。

神さまは何故、愛する独り子であるイエスさまが十字架の上で惨たらしい死に方をなさるままにされたのでしょうか。絶望の向こうには常に希望があると示すためです。ペトロはこの二か月ほどの間に、まさにそれを経験しました。イエスさまを裏切ってしまったという絶望。そして、復活されたイエスさまは、そんな不甲斐ない自分をも赦し、愛し続けてくださっているという希望。この希望により、十字架は大きな喜びの徴となりました。絶望の向こう側には希望があると示すために、神さまはイエスさまを死に渡された上で蘇らせられたのです。

さらにペトロは詩編を引用します。25節の二重鍵括弧の中は詩編第16編8節から11節の引用です。詩編16編の1節には「ミクタム。ダビデの詩」と書かれています。この「ミクタム」という言葉は、この詩編が石板に刻まれた文字であることを示しています。つまりこの詩編は碑です。

この碑はカナンに住む諸部族の中の、ある改宗者によって記されました。彼は、元は他の神を信じる者でしたが、何らかのきっかけでユダヤ教に改宗しました。そんな彼を神の民であるユダヤの人々が受け容れたので、彼は新しい友情を楽しんでいます。彼は、神さまこそが依り頼むべき方であると知りました。

これは彼自身の信仰にとってだけではなく、全ての人にとって重要な意味を持つ出来事でした。何故ならば、彼の新たな生活そのものが、神さまの聖名を呼ぶ者に対する神さまの姿勢を証しているからです。神さまはその人がどのような過去を持っていたとしても、神さまを信じるならば救われる、どのような経緯によって信じる者となったのか、どのような道筋をたどって来たのかを全く問わず、その人を救われるのです。救いの御業は全ての人に行きわたるのです。救いの御業にとって第三者は存在しません。全ての人が当事者なのです。

ペトロは聴衆に道を開きました。エルサレムの住民はローマの兵士たちの力を借りてイエスさまを十字架にかけて死なせてしまった。今更イエスさまが神さまから遣わされた方であると告げられても、かえって恐ろしくてイエスさまの聖名を呼べるわけが無いと考えるかもしれません。ペトロは、そうではないと告げています。自分もイエスさまを裏切った。そんな私をもイエスさまは赦し、救ってくださった。そしてイエスさまはあなたをも救うために、あなたをも赦すために、敢えて十字架に昇られたのだと、詩編をさらに引用して語ります。

30節でペトロはダビデを「預言者だった」と述べていますが、ペトロは複数の詩編を引用し、それによって旧約聖書全体がイエスさまについての預言であると証明しようとしています。「あなたがたはイエスさまを十字架にかけて殺してしまった」と、ペトロは私たちを糾弾しているかのように思えますが、その真意は違います。ペトロは聴く私たちに赦された喜びを語って聞かせようとしているのです。

罪深さは突き付けられるべきものではありません。神さまは罪に、神さまの御心に沿えない私たちの姿に気付かせてくださいます。伝道者たる私たちは、そんな私たちだからこそ神さまは赦してくださっていると証するために遣わされるのです。そのためにイエスさまは十字架に登られたのだと語って聞かせるのです。それが伝道であり宣教です。この御業に就くために聖霊が注がれました。その人のこれまでの歩みを否定するためにではなく、これからの道を神さまと共に歩めるように、私たちに聖霊が注がれ、御言葉が託されているのです。

ペトロや弟子たちは、語りながら自分たちも赦された喜びを確かめていたでしょう。聖霊が降るまで、彼らには何の力もありませんでした。しかし、聖霊が降ってからは彼らに語るべき言葉が与えられ、語るための力が与えられました。それはまさに神さまが共に居てくださると実感する時です。語る人、聴く人、双方が神さまの御臨在を実感する時です。

神さまは私たちと共に居てくださいます。その喜びを、伝道しながら味わいましょう。

説教目次へ