2023年7月16日
ガラテヤの信徒への手紙 6:1-10
「導きは霊によって」
人は自力で罪からの自由を勝ち得られるでしょうか。それはほとんど不可能と言って良いほどに難しいと思います。罪は私たちの心に少しでも隙が有れば入り込んで来てしまうからです。ガラテヤの教会にも罪が入り込もうとしていました。ガラテヤとは今のトルコ内陸部にある地域の名前です。パウロは第二回宣教旅行と第三回宣教旅行に際して、この地域を訪れました。ただ、パウロが、この地方のどの町に行ったのか、またどのようにして宣教をしたのか等、宣教活動の詳細について使徒言行録は何も記録していません。ガラテヤの信徒への手紙第4章13節によれば、パウロが健康を損ねたことがガラテヤの住民に福音を告げ知らせるきっかけとなったとあります。パウロは何らかの慢性的な病気を持っていたと考えられていますから、その病気の苦しみとの対峙がパウロに救いを語らせたのかもしれません。
ところがパウロがガラテヤを去ってしばらくすると、彼に敵対するユダヤ主義的なキリスト者たちがこの地方の諸教会に入り込み、パウロへの信頼をガラテヤに住む信徒たちから奪ってしまいました。このユダヤ主義者たちは、律法を守ってこそ本当のキリスト者であると考えていましたが、パウロが律法の大切さを充分に伝えなかったとしてパウロを非難したのです。
パウロはユダヤ主義者たちがガラテヤの諸教会で何を吹聴しているかを知っていましたが、どうやら直接ガラテヤに赴いてガラテヤの人々の心に生じた誤解を解くわけにはいかなかったようです。そこで、手紙を書いて彼らを福音の本道へと立ち返らせようとしました。
パウロは、もしも誰かが不注意によって罪に陥った場合に、それに気付いた者はどう振舞うべきかを説きます。ここで言う罪とは、いわゆる原罪ではありません。人間が犯してしまう諸々の罪の行為を指しています。特に今日読まれた箇所では教会から排斥されるまでには至らない程度の過失を指すものと思われます。様々な罪が考えられますが、今の私にとって、と言うよりも長らく私の課題となっている罪は怒りですので、ここでは仮に怒りを題材として扱いたいと思います。
怒りとは、自分が危険に晒されたと感じた時に、自分を守るために生じる精神の昂りであると定義できると思います。身体的な危機にあっては興奮が心身を活発にし、自己を防衛するための力となります。危機は身体への危害の恐れだけとは限りません。自尊心や名誉などが傷付けられるかもしれないという恐れもまた、人に危機感を抱かせ、怒りを生じさせます。怒りは自分を守るためには必要な反応ではあるのですが、この感情は得てして戦闘、つまり他者を傷付けることによって自分を守るという行為に繋がります。それが身体的な戦闘である場合もあれば精神的、あるいは言論的な戦闘である場合もあるでしょう。これらのどちらの場合もその手段に共通しているのは「相手を傷付ける」という過程を経るという点にあります。他者を傷付ける行為は、どのように理由を付けたとしても主の御心にはかなわないでしょう。怒りは罪の原因となり得ます。
罪には厄介な性質があります。誰かの罪が他の人の罪を連鎖的に生んでしまう可能性があるのです。特にキリスト者は仲間である他のキリスト者が何等かの罪を犯してしまった場面に出くわすと昂ってしまい、自分自身が怒ってしまう傾向が強いように思います。そして、躓いてしまっている人にたいして優越感を持ったり、蔑んだり、酷い時には罪を犯してしまった人を自分の正しさ、自分が正しいと信じている言説によって殴りつけてしまうことすらあります。正しさは強い誘惑となり、気付かぬうちに自分が罪に陥ってしまうのです。自分が正しくて相手は間違っていると考えている時、人は怒りっぽくなってしまいます。自分の方が相手よりも上の立場に居ると考えている時、人は怒りっぽくなってしまいます。
パウロは律法を良いものだとはしながらも、限界があると繰り返し説いています。律法は人に自分自身の姿と現実の有様を認識させるものの、それ自体は人を救いには至らせられません。律法に照らして正しさを追い求めたとしても、その追求は果てしなく続き、結局は自縄自縛や不毛さ、焦りだけが残ってしまうのです。律法を用いて自力で救いに与ろうと試みても、その試み事態が呪いとなって、人間の生き方を硬直化させてしまうのです。また、律法はそれを守れていると考えている人を、守れていないように見える人、あるいは自分がそのように見なしているに対して自分は上位にあると勘違いさせてしまいます。そして、その相手に対して怒りをぶつけさせます。それは傲慢という罪です。これは律法の罪ではありません。人間の罪です。律法を自分の都合の良いように、気ままに扱ってしまう人間の罪なのです。
罪は怒りだけではありません。私たちは様々な罪に直面しているわけですが、このどれに対しても柔和な心で臨み、その人を正しい道に立ち帰らせよとパウロは教えます。
神さまが送ってくださる霊に突き動かされる者は、誰に対しても昂りません。傲慢になりません。仮に罪を犯してしまった人を目の前にしても、むしろ遜るようにしてその人のそばに立ち、断罪するのではなく、この人が立ち直るための手を差し伸べます。アプローチの仕方が違うのです。感情をぶつけたりはしません。正義感も結局は感情の一つです。感情を剝き付けにして叩き付けても火に油を注ぐばかりで意味はありません。突き付けられた正しさ、突き付けられた感情は人を傷付け、かえってその人を失わせてしまいます。それよりも、まずその人の置かれている状況を理解しようと努めるべきだと思います。例えばその人が怒っているならば、何がその人を怒りに追いやっているのかを知り、共感することが、その人を罪の手から取り戻す第一歩となるでしょう。パウロは「重荷を担ってこそ、キリストの律法を全うできる。」と書き添えています。共感こそが、その人の重荷を担うという言葉の意味です。「結局律法か」という風には考えないでください。キリストの律法、キリストの掟とは、人を罪に定めるために存在しているのではなく、罪に陥っている人を救い出すために存在しています。イエスさまが教えてくださった、最も大切な掟とは何だったでしょうか。マタイは記しています。
「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」
ヨハネも同様に、「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。」と記しています。
私たちは人を断罪するのではなく、また自分を裁き人の座に就けるのでもなく、同じ罪びととして、同じ立場に立って、赦しを求めて神さまに祈る。自分が「分かってもらいたい」と思っているのと同じように、その人を分かりたいと願う。いま弱さの中にいる相手の傍らに立ち、その人と共に罪と戦い、その人と共に、またその人のために信じ、祈って執り成すことこそが、罪に負けそうになっている人のために私たちが出来ることなのです。そして何より、自分もまた重荷を共に担ってくれる誰かを必要としていると知り、そのために神さまが出合わせてくれた兄弟姉妹を大切に思う、互いに大切に思い合う、それがこの教会という群れなのです。だから私たちは正しさを武器として振り回さないのです。
イエスさまは「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」と言ってくださいます。「わたしの軛(くびき)は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」と言ってくださいます。何と大いなる憐れみでしょうか。救い主イエスさまが地上でなされた数々の御業は今、聖霊を注がれた教会に託されています。私たちは聖霊の導きに従って世に対して、そして時には共に主キリストを信ずる兄弟姉妹にイエスさまの憐れみを、救いを伝えるのです。