2023年7月30日
ペトロの手紙Ⅰ 3:13-22
「穏やかに、敬意をもって」
今日はペトロの手紙から御言葉を聞きたいと思います。この手紙が誰に宛てて書かれたのか、また何を目的として書かれたのか今一つハッキリしません。著者は最近キリスト教に改宗した人々を読者として想定しています。4章3節にある偶像礼拝を指摘する記述を見ますと、これらの人々は恐らくユダヤ教徒でもありません。あくまでも推測でしかありませんが、ヘレニズム的な多神教の文化の中に、散らされたように生活しているキリスト者たちに宛てて書かれた手紙でしょう。
この人たちはキリスト者であるがゆえに、彼らが生活している地域の風習や習慣、価値観とは違う生き方をしていました。そしてそのために、社会からは敵視され、あるいは苦しみを与えられていました。
それは、例えば国家による迫害のようなものとは少し質が違います。国家との対立はまだ、そこまでは先鋭化していませんでした。しかし、場合によってはその方が苦しいかもしれません。普段普通に接している人、生活の輪の中に存在する人が自分を異質な者として捉えている。こういう状態は、身を切り裂くような苦しみは与えないかもしれませんが、パンに生えたカビのように、心を少しずつ蝕んで苦しめるのではないでしょうか。
このように、異なる世界観・価値観を持つ大多数の人たちの中で生きている状態をペトロは「あなたがたは寄留者であり、滞在者なのだ」という言葉で表しています。そのような状態の中で、「あれらは異質だ」と誹られたとしても、正しい生き方をしなさい、社会を乱してはならないとペトロは戒めるのです。
私たちは正しさを望みます。私たちの信じる正義が行われるように願います。例えば全ての人が持つ尊厳が大切にされるということを望みます。例えば全ての人にチャンスが平等に与えられることを望みます。例えば平和を望みます。私たちには世に対して訴えかけたいことがあります。しかし、世が私たちの願いを理解してくれるとは限りません。
そのような時に、その無理解を悪意として捉えるような見方が私たちにとって相応しいでしょうか。私にはそうは思えません。こちらから進んで相手の思いや言葉、考え、行いを悪意あるものとする解釈は正しくないのです。仮に、実際に私たちに向けられた感情が悪意であったとしても、それに対して悪意で報いてはならないとペトロは教えます。その通りだと思います。悪意に悪意を重ねれば、その末に理解はあり得ません。そこに待っているのは無理解でしかありません。優しさの無い言葉を叩きつけて理解が得られるでしょうか。反感しか買わないではありませんか。「平和を愛する」という人の口から出る言葉に、姿に平和が無ければ、どうして平和を伝えられるでしょう。
ペトロは言います。「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福しなさい。」
私たちと向き合っているその人が、本当に悪意をもって私たちに向かっていたとしても、悪意でそれに応じてはならない。むしろ祝福しなさいと言うのです。箴言に、「あなたを憎む者が飢えているならパンを与えよ。渇いているなら水を飲ませよ。こうしてあなたは炭火を彼の頭に積む。そして主があなたに報いられる。」とあります。その通りだと思います。あなたの善意を神さまが用いて、その人を得させてくださるのです。悪意を持っている人に対してもそうであるとしたならば、単に違う意見を持っている人たちに対して悪意で臨む姿勢は正しいでしょうか。神さまはペトロを通して「祝福しなさい」と教えてくださいます。相手を善意で見よと教えてくださるのです。私たちの力の及ぶ限り、その人のなそうとしていることから善意をくみ取る努力が、私たちに望まれているのです。甘い考えだと言われるかもしれません。そのようなことでは取り込まれ、利用されてしまうだけだと言われるかもしれません。相手にこちらの言い分を聞かせるためには力が必要なのだと言われるかもしれません。大きな声を上げなければ聞かれないのだと言われるかもしれません。でも私には、その考え方こそが、「対決」という構造を作り出してしまうと思われるのです。それこそが、「この世の力に呑み込まれる」という事態なのではないかと思われるのです。
日本の戦後史を見ても、このような構造がいくつも見られました。労働争議、学生運動、平和運動、身近なところでは教団紛争など、様々なところで人々は対決を繰り返してきました。今でも対決が見られます。私はそれらに関わっている人たちの願いを否定しません。全ては善意から出ている主張であると理解できるからです。しかし、あの手段は本当に正しかったのでしょうか。正しいのでしょうか。人数で押し囲み、叫び、棒を振り回す姿は決して平和的であるとは言えません。バリケードを築き、人を締め出して平和が訪れるでしょうか。感情を剥き出しにする集団を見て恐怖した人が居なかったでしょうか。誰かを罵る言葉は平和でしょうか。善意がこの世の力に飲み込まれ、恐怖や怒りが残ります。
「優しく、敬意を持って、正しい良心で弁明しなさい」とペトロは説きます。私たちに問い掛ける人々に対してそのようにせよ、私たちに敵意を持って向かって来る人に対しても自分の感情を制御し、あくまでも善意で向き合えと言います。「善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりも良い」と言います。熱情は確かに気持ちを強く伝える力を持っていますが、激発は、大声や暴力は伝えるべきメッセージを雲散霧消させてしまい、無理解だけを残します。伝えたいという情熱に加えて、穏やかに自分の信仰を、自分の求める正しさを伝えられる冷静さも必要なのです。自分の上に及んだ神さまの御力、神さまの救いの御業を落ち着いて語れるような準備が必要です。苦しむ時、自分が何を求めていたのか。その求めに神さまはどのように応えてくださったのか。そして今、何を見ているのかを言葉にし、筋道立てて説明できるように整理しておく必要があります。それは決して簡単ではありません。これは大変に難しい勧めです。これと比べれば大声で訴える方がはるかに楽でしょう。しかし、大きな声であればたくさん伝わるかというと、そうではありません。落ち着いた対話こそ、最も優れた伝達の手段だろうと思います。主イエスは十字架に昇られるまでの道のりでそれをなさいました。
ゲッセマネの園で主は苦しまれました。全世界の罪を一身に背負わなければならない。全ての罪を背負って死ななければならない。それは理不尽としか言いようの無いほどに過酷な使命です。私たちと同じ人として降られた御子は、その重荷に悩まれました。しかし、神さまとの対話の中であくまでも神さまの御心が行われることを願い、その成就のために天からの助力を得られました。その時が来るまで、イエスさまはただ一人、苦しみ悶えておられました。ついに群衆がイエスさまを捕えようとして現れた時、興奮した弟子のひとりが捕り手に剣を持って斬りかかり、耳を切り落としてしまいましたが、イエスさまは傷付いた耳に触れて癒されました。それから始まった裁判においても、また十字架の上でもイエスさまは柔和で、最後まで人々のために祈られました。御自分を傷付ける者のためにも祈られました。だからこそ、ローマの百人隊長もイエスさまが正しい人であり、神の御子であると悟ったのです。
私たちの望み、私たちの希望は、この主の御姿にあるのではないでしょうか。私たちを傷付けようと誰かが近付いてきたとしても、その人々を剣によって、力によって退けず、むしろその人々をも主が御手によって癒され救われるように私たちは願うのです。自分たちを罵る者のためにも祈るのです。
私たちは、神の正しさが行われるように祈ります。私たちは穏やかさをもって神さまの救いの御業を証します。それは楽な道ではないと思います。何度も口惜しい思いをしなければならないでしょう。それでも、その口惜しさの方がマシなのです。大声を上げたり、実力を行使した末に生じる無理解よりも、ずっとずっとマシなのです。
ペトロの時代、世はこれから迫害の時代へと進んで行きます。ペトロはそれを予見しているように見えます。そのような時代の中でペトロはキリスト者に、自分を見失わず、取り乱さず、神の愛の内に生き、愛を行うよう勧めています。
今のこの時代、先に何が待っているのかハッキリしませんが、既に愛が失われつつあるように感じられます。世は乱れるのかもしれません。そして、私たちキリスト者の心からも愛が失われつつあるのではないかと危惧します。私たちは私たちを取り巻く全ての人のために祈っているでしょうか。このような時代だからこそ私たちは改めて、神に正しい道を求めて祈るのです。
イエスさまは「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」と言ってくださいます。「わたしの軛(くびき)は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」と言ってくださいます。何と大いなる憐れみでしょうか。救い主イエスさまが地上でなされた数々の御業は今、聖霊を注がれた教会に託されています。私たちは聖霊の導きに従って世に対して、そして時には共に主キリストを信ずる兄弟姉妹にイエスさまの憐れみを、救いを伝えるのです。