2023年7月9日
使徒言行録 20:7-12
「眠ってしまった青年」
ここに一人の愛すべき若者が居ます。彼の名はエウティコ。「幸福な者」という意味の名を持つ若者です。彼もまた、私たちと同じようにイエスさまを信じ、主の御言葉を求めて、主にある交わりを求めて集まる人の一人でした。その夜は少し特別な夜でした。7日前に、あのパウロが彼の住むトロアスを訪れたのですが、明日の朝の船便でアソスに旅立つというのです。今夜はパウロと礼拝を共にささげられる最後の夜なのです。みことばの説き明かしとパン裂き、つまり聖餐式が執り行われ、礼拝の後にはそこに集まった皆で食事をしていました。この当時はまだ日曜日が休息の日とはなっていませんでしたから、皆一日の労働を終えた夕方に集まって礼拝を守っていました。エウティコも仕事を終えて、いつも集会を守っている家に駆け付けました。そこにはたくさんの人が訪れていました。部屋の中は一杯です。エウティコは若いから遠慮したのか、あるいは人の熱気から逃れるためか、窓の桟に腰かけていました。
「明日は別れ」というので、説教者であるパウロの話にも自然と熱が入り、なんと夜中にまで及びます。人の熱気で満たされた部屋の中。その一方で背中を撫でる涼しい風。長く、長く続くパウロの話。そこに一日の労働の疲れが出て、エウティコはついうつらうつらと船を漕いでしまいます。ほんの一瞬、ほんの一瞬だけなのです。本当に眠ってしまったのです。しかし、その一瞬で彼はバランスを崩し、よりによって窓の外に落ちてしまいました。
パウロ達が礼拝を守っていた部屋は3階にありました。窓から下に落ちてしまったエウティコは打ちどころが悪かったのか、死んでしまいました。彼が落ちたことに気付いた人々が騒ぎ始めます。そこでパウロは1階に降りて行き、エウティコの様子を見ます。
会衆の多くがエウティコの命について、もう諦めていたのではないかと思います。もしも会衆がエウティコに助かる見込みを少しでも見出していたならば、彼らも決して諦めず、可能な限りの手立てを講じたでしょうが、明確に「もう死んでいた」と記されているように、彼は既に息をしておらず、常識的に考えて回復する見込みの無い状況でした。最早手立ては無い。会衆が人の力の限界を目の前にして諦めていた一方で、パウロは諦めていませんでした。
「騒ぐな、まだ生きている。」というパウロの言葉が会衆に喝を入れました。「もうダメだ」と諦めていた会衆に、何も出来ないと諦めていた人々に気合を入れ直したのです。窓から落ちてしまったエウティコに気付いたパウロは、まず何をしたでしょうか。「ここに連れて来い」と命じたでしょうか。違います。彼自身が礼拝の場であった3階の部屋から表に降りて行って、エウティコを抱き締めました。そして、再び礼拝の場となっていた3階の部屋に帰って礼拝を続けました。エウティコは戻りつつある意識の中で、少しずつハッキリしていく視界の中で、礼拝へと帰るパウロの後ろ姿を見たのではないかと思います。
確かにエウティコは窓から外に落ちてしまいました。礼拝の外に落ちてしまいましたが、私たちが礼拝の外と考えるような場所でも神さまの御業は働きました。もしパウロまでもが「もう出来ることは無い。」と諦めてしまっていたならば、エウティコはそっと息を引き取ったでしょう。でも神さまは彼の内にまだ命を保っておられました。パウロは彼の内にある命を諦めませんでした。
私たちは、何を内、何を外と考えるのかについて、また内に向かってなすべき働きかけと、外に向かってなすべき働きかけについて、今一度整理し直すべきなのではないかと思います。私たちは外に出掛けて行って、外の人に対して福音を宣べ伝えます。行く先を私たちが限定してしまうのは、エウティコの命について諦めてしまうのと同じなのではないでしょうか。私たちは、その人たちの「内なる人」に訴えかけます。ここにおいで。ここにはあなたを養う御言葉がある。礼拝へと集う私たちの後ろ姿が外の人たちの目にも映るはずです。最終的にその人たちを礼拝へと、永遠の命への希望が語られる、救いに与れるこの場所に導けるのであれば、私たちは行く先を、また迎え入れ方を選ぶべきではないのではないでしょうか。確かに私たちには限界があります。が、その限界を目にして早々に諦めてしまっては、エウティコを礼拝の場に連れて帰れなくなってしまうのです。エウティコとは誰でしょうか。日々の生活に疲れ切っている全ての人がエウティコなのです。
今日のこの聖書箇所を読む時、滑稽さを感じる方は少なくないでしょう。本来であれば、人の生き死にに関わる事件が描かれているわけですから、ちっとも笑えるはずはないのですが、私たちはこの話の結末を知っていますから、この物語にある種のユーモアを、つまりおかしみと人間味を感じることができるのです。落語家の桂枝雀は「緊張の緩和が笑いを生む」と言いましたが、今日の聖書箇所には図らずも緊張と緩和があります。この物語には「若者の死」という緊張がありますが、蘇生という緩和があることによって事件の原因が居眠りであるということに目を向けられるようになり、おかしみを味わう余裕が出来るわけです。彼が助かるということを知っているから、この箇所が読まれる時に失笑することが、ある意味で安心してできるわけです。この事件の当事者であった人々も笑ったのではないかと想像します。「ビックリしたよ!」とか「心配させるなよ!」と口々に言いながら、皆がエウティコの背中をさすり、手を握る。その誰もが笑みを浮かべていたのではないでしょうか。もちろんエウティコにしてみれば、こんなことで歴史に名を残してしまう、二千年後の時代でまでも失笑されるというのは不本意極まりない事だったでしょう。しかし、彼を通して私たちはパウロの時代の礼拝が持っていた、生き生きとした雰囲気を見るのです。エウティコの教会には笑顔がありました。教会はそれで良いのだと思います。誰もが笑顔で集まれれば、その笑顔から神の民の交わりが始まるのです。
神の民としての交わりを必要としている全ての人がエウティコなのです。神さまは礼拝堂の外に居るエウティコの命を見詰めておられます。