聖霊降臨節第12主日礼拝説教

2023年8月13日

テサロニケの信徒への手紙Ⅰ 1:1-10

「再臨を待ち望む」

イエスさまが天に昇られた際、主の御使いたちは弟子たちに「イエスさまは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」と約束をしてくださいました。私たちに御姿を見せてくださると約束してくださったのです。私たちはその日を待ち焦がれながら毎日地上での旅を続けているわけです。では、その日が来るまで私たちはイエスさまの御姿を全く見られないのかと言いますと、必ずしもそうではないと思います。私たち自身の交わりの中で、また世にあって私たちと共に生きる人々との交わりの中でイエスさまはその御姿を垣間見させてくださるからです。

今日はテサロニケの教会に宛てて書かれた手紙が読まれました。テサロニケはギリシャの港町で、ギリシャにおける第二の規模を持つ大都市です。この町は古代から今に至るまで栄え続けて来ました。パウロの当時にあっては、ローマ帝国マケドニア州の首都として属州総督がこの町に居り、司法権と行政権を持ち、砦と造船所がこの町にはありました。大阪府の元府知事であった橋本氏が、大阪を東京に並び立つ「都」、あるいは「副都」にしようと呼び掛けたことがありましたが、もしもこれが実現していたならば、その町のイメージはテサロニケの町のようになっていたかもしれません。統治にあたって大きな裁量権が与えられ、更には軍事力においても、商業の面でも首都ローマに次ぐ大都市であったわけです。

この町をパウロが訪れたのは西暦49年秋のことであったと考えられています。第2回宣教旅行の時に、パウロはシラスと一緒にこのテサロニケを訪れ、主の御言葉を宣べ伝えました。テサロニケでの宣教は成功であったと言えます。使徒言行録第17章には「それで、彼らのうちのある者は信じて、パウロとシラスに従った。神をあがめる多くのギリシア人や、かなりの数のおもだった婦人たちも同じように二人に従った。」とあり、また「ユダヤ人たちはそれを妬んだ」ともありますから、この時の宣教は相当な成功であったと言って良いでしょう。

しかし、反対者たちによる敵意はパウロとシラスに危険を感じさせるほどになったので、彼らはあまり長く滞在できませんでした。パウロが去った後はシラスとテモテがテサロニケの近くにあるベレアという町に残ったと記されていますから、この二人が少し離れたところからテサロニケの教会を支えたのでしょう。

しばらくすると、シラスとテモテがパウロと再び合流し、テサロニケの教会の様子を伝えました。手紙の冒頭で差出人としてパウロ、シルワノ、テモテの名が挙げられていますが、シルワノとはシラスの名をラテン語で記した場合の読み方です。パウロはこの手紙を書くにあたって、テサロニケの人々にも親しみを覚えるテモテ、シラスの名を添え、自分だけがテサロニケの教会に集まる人々に関心を持っているわけではなく、この教会に関わった全ての人が心を配っていると知らせたのです。シラスとテモテは、テサロニケの人々が迫害を受けながらも信仰を守り、福音を証していると報告しました。そして同時に、テサロニケの人々からの質問をパウロに伝えました。この手紙は、その質問に答えるためのものです。

パウロが去った後も、キリスト者たちには圧迫があっただろうことは想像に難くありません。ユダヤ人たちにとってキリスト者が危険な分派であることには変わりは無かったからです。では、なぜ彼らは迫害にも負けず、信仰を保ち、愛を行えたのでしょうか。それは、彼らがキリストの再臨を待ち望んでいたからです。イエスさまに必ず会えるという希望を持っていたからです。

そして、パウロはテサロニケの人々に、あなた方は神さまから愛されている、わたしはそれを確信していると告げています。将来への希望や愛への確信は現在の苦難を乗り越える力を与えます。たとえ大きな岩が目の前にあったとしても、この向こう側には幸福な未来が待っていると確信できたならば、人間はこの岩を登るにあたって苦痛を覚えません。自分は愛されていると信じられる者は目の前に大きな裂け目があったとしても道から足を踏み外しません。仮に半歩道からはみ出てしまったとしても、必ず元の道に戻るものです。逆に、将来に希望が持てなかったり、愛されていると確信できなかったりしたならば、容易に足を止め、道を踏み外してしまいます。

時折、危うさを覚えさせられる人を見る機会があります。その人を見ていると、大丈夫かな、この人は満たされているのかなと心配になってしまうというような時があるのです。発言や他者への行いを見ていると、思いやりに欠けているように感じさせられたり、何かへの飢えを感じさせられたりするのです。そんな時、本来受けるべきであった愛情や、本来与えられるべきであるはずの平和が与えられていないのではないかと、私は心配になるのです。人はまず無条件に愛されるべきなのだろうと思います。愛するから愛されるのではなく、愛されて初めて愛せるようになるのではないかと思うのです。であるならば、他者への愛に欠けているように感じさせる人に必要なのは、愛されるという体験でしょう。大好きだよと言ってもらえる。信頼してるよと言ってもらえる。そして誤りがあった時には叱ってもらえたり、一緒に誤りを正してくれたり、励ましてもらえるという体験がその人の欠けを埋め、成長させるのです。「この人はそこまで」と諦めるのではなく、この人ならば得られなかったものをきっと見付け出して手に入れてくれる、神さまがそのように計らって下さると信じて関り続けることこそが、神の国を待ち望む私たちの取るべき姿勢なのです。

テサロニケの人々は苦難の中にありながらも御言葉を受け入れ、伝道者たちに倣い、ついには主御自身に倣う者、主に従う者となりました。主に従う者はイエスさまが苦難に負けなかったように、迫害や圧迫にも負けません。イエスさまの愛を知った者は作り変えられます。旧い罪、まだイエスさまと出会う前に私たちを支配していた罪の誘惑にも負けず、愛を行う者として作り変えられます。作り変えられた者が集まるとそこには証しが生まれ、伝道の力が湧いて出てきます。8節でパウロはテサロニケで起こった回心について、おそらくキリスト者の間でだけではなく至る所で語られていると、考えを改めています。それは、テサロニケの人々の語る言葉、互いに掛ける言葉、世に対して語り掛ける言葉が愛から出た力強いものであったからです。

愛が行われている向こう側に私たちは主の御力が働いている様子を見出します。愛を行っている者がキリスト者ではなかったとしても、その人が御言葉の通りの愛を行っていたならば私たちは主イエスの御姿を見ます。きっと私たちだけがそれ見るのではないと思います。イエスさまの御力が発揮されていく様子は人づてに広がります。イエスさまを信じていない人であっても、あそこには何かがあると聞き、その何かに飢えている人は集まるはずです。そして、ついにそれを慕って集まった人を喜びのうちに信じる者へと作り変えます。その人は世界に満たされている愛を信じ、愛されている自分を信じ、未来を信じて、希望を持って歩み始めるのです。

私たちは御言葉の成就される時を待ち望んでいます。今こそ御心を行ってくださいと願っています。愛を行ってください、平和をお与えくださいと祈り続けています。神さまはいつでも御言葉を成就しようとしておられます。御言葉は必ず成就されると強く信じる姿勢こそが私たちに望まれているのです。

かつてヘンリー・フォードは言いました。「二十歳であろうが八十歳であろうが、学ぶことをやめた者は老人である。学び続ける者はいつまでも若い。人生で一番大切なことは、若い精神を持ち続けることだ。」今日の招詞として箴言の22章6節を選びました。「若者を歩むべき道の初めに教育せよ」とあります。私たちはいつでも歩むべき道の始まりに立っています。私たちの未来にはいつでも希望があるのです。

説教目次へ