2023年8月27日
ローマの信徒への手紙 14:1-9
「それぞれの精一杯」
パウロは信仰者の生き方の違いと、それをいかに捉えるべきかを論じるにあたり、食事を例に出しました。ローマの教会では食べ物を理由として軋轢が生じていました。野菜だけを食べる人たちが居たのですが、その人たちを軽蔑し、批判する人たちとの間で諍いになっていたのです。パウロ自身はどのように考えていたかと言いますと、14節に「それ自体で汚れたものは何もない。」とある通り、敢えて何かの食材を避ける必要は無いと考えていましたが、同時に肉食を避ける人々についての理解もあっただろうと私は考えています。パウロは肉を食べない人々のことを「信仰の弱い人」と言っていますが、これは決して肉を食べない人は肉を食べる人に対して信仰的に劣るという意味ではないでしょう。
使徒言行録15章を見ますと使徒会議は、異邦人のキリスト者たちに対して偶像に供えて穢れた肉と、みだらな行いと、絞め殺した動物の肉、血とを避けるように手紙を書くべきであるとの結論を出したと書かれています。ローマの教会にもこの決定は伝わっていたでしょうから、肉を避けていた人々は使徒会議の決定を忠実に守るために正体の分からない肉、もしかすると偶像に捧げられたかもしれない肉を避けようとして、全ての肉を避けたのでしょう。そうであるならば、肉を食べないという生き方は、その人の信仰生活を助ける役割を果たしています。罪を避けさせる、神さまへの負い目を増やさないように導く働きがあるのです。
その一方で、肉を食べる人は考えようによってはあっけらかんとした態度で偶像を否定しているとも言えます。コリントの信徒への手紙Ⅰを見ますと8章に「世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、私たちは知っています。」とパウロは記していますが、この考え方に則るならば、「もしその肉が偶像に捧げられていたとしても、そもそも偶像なんて何の意味も無いのだから、その肉はただの肉に過ぎない」と言えます。このような人々は食べることで信仰を言い表しているとも言えるでしょう。パウロはこのような人々を「強い人」と表現しているのです。
肉を食べない生き方は、パウロの言う弱い人にとっては信仰生活を助ける役割を果たしています。同様に、食べることが信仰の助けとなる場合もあるのです。食べることで、偶像になど意味は無いと確かめる助けとなるのです。それぞれが信仰の助けを持っているのです。それなのに、肉を食べる人たちが肉を食べない人たちを馬鹿にし、また逆に肉を食べない人たちも肉を食べる人たちに対して「もしもそれが偶像に捧げられた肉だったらどうするんだ!」と言って裁いているような有様だったので、両方とも間違っているとパウロは戒めたのです。神さまに仕える者として、より良い仕え方を模索した結果が、ある人々にとっては「肉を食べない」という選択であり、別の人々にとっては「なんでも食べる」という選択だったのです。どちらも心から神さまに仕えようとしていたのですから、互いを認め合うようにとパウロは勧めたのです。
その勧めのために、パウロはユニークな説明の仕方をしています。「他人の召し使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか」と厳しい言葉を投げかけています。召使いは主人のものであり、主人に命じられた通りのことをする者でした。逆に言うならば、主人が許した行いだけをする者でもあります。そのような召使いに対して、主人でもない者が主人を差し置いて、その召使いに対してとやかく言えるわけはありません。今の労働体系でも同じはずです。ある労働者に対して、指示系統の違う別の部署の者があれこれ言えるでしょうか。
それと同じように、全ての信仰者は主に仕える者、召使いです。「主に仕える」という大きな目的を果たすために、それぞれのやり方で仕事に取り組んでいるのです。そして、主人であるキリスト御自身が、それぞれの働き方を受け入れてくださっているのですから、主人を差し置いてあれこれ言う必要は無いのです。
「召使いが立つのも倒れるのも、その主人によるのです。しかし召使いは立ちます。」とあります。主人には好ましい召使いを立たせてどんどん進ませる権限もあれば、好ましくない働き方をする召使いを鞭で打ち、倒す権限もありますが、「しかし、召使いは立ちます」とあるように、私たちの主人であるキリストは私たちの誰一人といえども倒すことなく、むしろ立たせられます。主は信仰の弱い私たちを受け入れ、励まし、立たせてくださるのです。そして同じように、全ての人を受け入れ、励まし、立たせてくださるのです。そして、歩みを助け、育てようとしてくださるのです。そして私たちは、この主の御姿に倣うのです。
「キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。」とパウロはキリストへの信仰を告白しています。私たちは生きるにしても死ぬにしても、主にお仕えするために生き、また死ぬのです。私たちが「この人には影がある、光が当たっていない」と思う人もまた、主のために生きているのです。その人を私たちの定規で計り、裁くことは、神さまに先立って審判を下す行いです。それが赦されるでしょうか。私たちが下す裁きは、私たちへの裁きを招きます。最近読んだ本に、大変考えさせられる文章がありました。「人は他者に自分の影を映す」と言うのです。自分がする考えや行いを当然他者もするものだと考えるから、自分自身が持っている後ろ暗さによって他者を疑ったり批判したりするというのです。私たちが他者の姿に影を見出す時、その影の正体は自分自身の暗さなのです。光の御子に集められ、御言葉によって光を与えられた私たちは、他者にも光を当てるべきなのです。
主はいつでも私たちに光を当てようとしておられます。とりわけ、六日の間働いた後には、御光の下に私たちを集めて休ませてくださいます。光を受け、また光を放ち、互いを照らしあい、主への感謝として賛美を捧げたいと願います。