聖霊降臨節第11主日礼拝説教

2023年8月6日

ローマの信徒への手紙 12:9-21

「善をもって悪に」

私たちは平和を愛し、平和を求める者です。平和への思いには、キリスト者であるか否かによる差はありません。キリスト者であろうとなかろうと、誰もが平和を愛し、求めています。それぞれが、それぞれのやり方で平和を実現しようと努力しているのだと、私は信じています。今日の御言葉は、私たちキリスト者ならではの働きについて教えています。

ローマの信徒への手紙が書かれた当時、キリスト教会の中で熱狂主義への関心が高まっていました。聖霊を注がれ、異言を語るという、ある種の特殊能力が高く評価されるようになっていたわけです。これに対してパウロは、最も良い道は愛であるとし、どのような優れた能力も愛が欠けていたならば虚しく、愛こそが最も大いなる力を持つと教えました。教会は神さまの聖霊の働きによって、この地上で神さまの御心を語り、また行うキリストの体です。しかし、期待されている働きとは決して特殊な働きではありません。教会に集う人々、戸を叩く人々、そして教会の外にいる人々と共に神さまの恵みの中で生きる、共に歩む、それこそが、私たちに期待されている働きです。

しかし、実際には肉の思いも混ざってしまいがちです。常にそうであるとは思いませんし、肉の思いが悪意から生まれたとも思いませんが、私たちが神さまの義を追求する時に、自己満足をも同時に追い求めてしまう傾向があることは否定できません。甚だしい時には、自己主張する際に神さまの名前を用いて自分を正当化するという誘惑に負けてしまったりもします。自分の正しさを神さまの聖名によって主張しようとしてしまうのです。簡単に言うならば、自分の主張を述べるにあたって、神さまやキリストの聖名を用いてしまうのです。「キリスト者ならこうあるべきだ」、あるいは「キリスト者として私はこう考える」と。これは恐ろしいやり方だと私は思っています。何等かの意見を発するにあたって神さまの聖名やキリストの聖名、あるいはキリストの体である教会の名を用いてしまうと、「これ以外はキリストの思いとは異なる」と、その意見とは異なる立場を断罪するのと同じ意味があるからです。発せられた意見が誰かへの非難であった場合などは明確な断罪となります。断罪とはつまり、「これらを私たちは受け容れない」と分断する行為です。私は分断こそ罪であると考えています。神さまとの分断や社会との分断が罪であると考えています。また分断へ導く行いや思いを罪であると考えています。私たちは誰かを断罪できるでしょうか。誰かを自分たちから分断して良いのでしょうか。仮に誰かが私たちを分断したとしても、私たちは誰かを分断すべきではありません。私たちは裁き人ではないのですから。世が私たちを断罪したとしても、私たちは世を断罪すべきではありません。

世から分断されている人の例として、旅人が挙げられます。旅をしている途中にある人は、言い換えるならば本来属する人間関係から一時的に離脱している者です。一時的な分断の中にある人です。その人は故郷に居るならば受けられるはずの助力を受けられない状態にあります。13節には「旅人をもてなすよう努めなさい」とあります。孤立した人を捨て置かず、このような人を積極的に探し求め、その人が困難の中にあると気付いたならば、この人が故郷にあるならば受けられたであろう援助を与えるべきであるとパウロは説いているのです。この人は今、故郷から離れていますが、旅を続けられたならばいつか故郷に帰り着くでしょう。分断の状態から回復するのです。少なくともその可能性はあるはずです。誰だって本来あるべき場所に帰れるのです。断ち切られさえしなければ、誰だって立ち帰れるのです。だから、その未来に期待して、私たちは余所者扱いされている人、分断されている人に手を伸ばし、その人をこの群れに迎え入れるのです。そして、その人が旅を続けられるよう、本来居るべき場所に帰れるように援助するのです。

キリスト者であろうとなかろうと、私たちは罪から自由ではありません。罪の力はいつでも私たちを分断しようとします。しかし、罪の力は永遠に働き続けるわけではありません。救い主が罪を滅ぼしてくださるからです。救い主が私たちを罪から自由にしてくださるからです。そこに期待するから、私たちは自らを励まし、また罪の力に負けそうになっている人、分断に追いやられそうになっている人を取り戻すために手を伸ばすのです。実際に罪を犯してしまい、世の中から分断されてしまった人々をも取り戻そうと努力するのです。イエスさまに繋がって、その人と共にイエスさまに繋がって、一緒に問題を解決しよう、ゆっくりかもしれないけれど一緒に何とかしようと呼びかけるのです。

時々、目の前にある問題を上手に解決する手段を見付け出せない人が居ます。これは、その人が特殊なのではありません。誰だって、そうなってしまう可能性はあるのです。置かれた状況が選択肢を奪ったり、健康状態が悪くなって普段なら見えていた道筋が見えなくなってしまったり、色々な理由で人は道を見失ってしまいます。どうしようも無くなって泣いたり暴れたりします。そんな時に必要なのは問題を一気に解決するような援助の仕方ではないと思います。強力な実行力ではありません。急速な変化は、その人を取り残してしまったり、反発を生んだりする可能性があります。悲しんでいる時には一緒に悲しみ、時間をかけてでもその人を理解するのです。もちろん、時間をかけるということは労力も必要にはなりますが、一つひとつ納得しながら歩む方が、一緒に喜べるような満足を得やすいと思います。

平和の実現は難しいと思います。人類はいつでも問題を抱えているからです。あっちで怒って暴れているヤツが居れば、こっちでは飢えている人が居て、そっちでは虐められて泣いている人が居るという具合にです。今までの人類は鉈を振るうようにばっさばっさと白黒つけようしてきましたが、どの試みも長続きしませんでした。力による平和は一時的には問題を目につかなくするかもしれませんが、水面下で不満が募って再び爆発するというケースを歴史はたくさん記録しています。そういうことは世の力が散々にやってきたことです。そういうのはうんざりです。同じことの繰り返しに世の人々が絶望してしまいそうになった時にこそ、私たちは希望を語ります。救いの日は必ず訪れるから、それまで互いを理解しあい、ゆっくりで良いから皆で進もうと世に訴えかけるのです。平和的な訴えによって、平和的な働きかけによって平和を求めるのです。必要なのは大きな声でもなければ力でもありません。世に対する反対でもありません。私たちが用いるのは平和的な語り掛けなのです。

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