2023年9月10日
ガラテヤの信徒への手紙 6:14-18
「十字架をこそ」
私は皆さんの前でこそ自由に、自分の信仰に基づいてお話をしていますが、場所が変わりますと中々思い切った話が出来なくなったりもします。特に、強い反発を受けるだろうことが予想される場合には、発言を控えたりもします。敢えて火中の栗を拾うほどの度胸が私には無いからですが、それが本当に必要なメッセージであるならば恐れずに語らなければならないと、今日の聖句を読んでいて思わされました。ガラテヤの信徒に宛てて書かれたこの手紙の中で、パウロは繰り返し厳しい表現を用いました。そもそもこの手紙を「キリストの恵みへ招いて下さった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。」という強烈な批判から書き始めているほか、3章ではガラテヤの人々を「物分かりの悪いガラテヤの人たち」と呼ぶなど、もう少し言葉選びに配慮をしなければ反発を買うだけではないかと、読んでいる私たちがひやひやする様な言葉が並んでいます。今日の箇所は、この手紙の結びの部分ですが、ここでも「これからは、だれもわたしを煩わさないでほしい」と、まるで「あなた方は面倒ごとを持ち込んだ。もう懲りごりだ。」とでも言わんばかりの言葉を用いています。
しかし、パウロはこれらの言葉をガラテヤの人々から距離を置くために用いているわけでもなければ、嫌悪を現すために選んでいるわけでもありません。むしろ、「あなたたちなら分かってくれるはずだ」という信頼が根底にあるからこそ、このような言葉を選べたのだと言えるでしょう。
パウロがガラテヤの教会から次の町へと出発すると、すぐに別の人々がガラテヤの教会に入り込んできました。これらの人々はユダヤ人キリスト者であっただろうと考えられています。彼らはパウロの律法に対する姿勢を強く批判しました。パウロは異邦人に対して律法を強調しませんでした。特に割礼を受けるべきだと教えなかったために、彼らはパウロを強く論難しました。しかし、この批判が彼らの信仰や信条に基いてなされていたわけではなく、迫害を避けたいという思いから出ていると見抜いたパウロは、逆に彼らを批判します。
パウロは「彼らはただ、キリストの十字架のために迫害を受けたくないだけなのです。」と述べています。割礼を勧める人々が避けようとしていた迫害とは、ユダヤ人による迫害でした。当時、ユダヤ教徒はキリスト者を自分たちの中の新しいグループだと捉えており、キリスト者もそれに近い考え方をしていました。
ユダヤ人にとっては律法に従って生きかどうかが神の民であるユダヤ教徒とそれ以外を分ける目印となるわけですが、目に見える形でその印となるのが割礼の有無です。そこでユダヤ人は異邦人が神の民に加わるにあたっては、自分たちが受けているのと同じ割礼を受けるのは当然だと考えていました。パウロはそれを不要だと言ってしまったために、ユダヤ人たちは彼を神の民の正統を崩す不埒もの、裏切り者と見なし、迫害の対象としたのです。
ユダヤ人キリスト者たちは、自分たちも同じような考えを持つ者として迫害されるのではないかと恐れ、キリスト者となろうとする異邦人にも律法に基づく割礼を求めました。彼ら目には最早信仰の中核であるべきイエスさまの御受難が映っておらず、救いを宣べ伝えることよりも割礼を施すことの方に熱心さが注がれていました。異邦人に割礼を施した、しるしを付けたという実績を誇るようになってしまいました。そこでパウロは、私たちには違うしるしが与えられている。十字架こそが私たちの誇るべきしるしであるはずだと、改めて救いの根源と伝道の本当の意味を教えるのです。
しるしについて、イエスさまはどのように仰ったでしょうか。イエスさまはファリサイ派の人に対して「ヨナのしるしの他にはいかなる印も与えられない。ヨナが三日三晩、魚の腹の中に居たように、人の子も三日三晩地の中に居るだろう」と教えられました。ニネベはアッシリア帝国の首都であり、そこに住む人々はユダヤ人にとっては異邦人です。神さまはその異邦人を悔い改めと救に導くためにヨナを遣わされましたが、その途中で嵐のために海に投げ込まれ、三日三晩を魚の腹の中で過ごしました。ヨナを通して神さまは御自身の救いと愛が異邦人にも与えられるのだと示されたのです。そして、イエスさまはヨナと御自身を重ねて論じることによって、全ての人の救いのために十字架の上で死なれ、三日目に蘇られることを予告なさったのです。
パウロはこのイエスさま、復活のイエスさまと出会いました。パウロはかつて熱心なユダヤ教徒として、それも知られるファリサイ派に属する者として律法への熱心さを誇りとしていました。そんなパウロはキリスト者の迫害にも熱心で、進んでキリスト者を見付け出してはユダヤ当局に訴えていましたが、ダマスコへの途上において主イエスと出会い、救われます。その時から彼にとってはキリストの御受難と復活こそが救いとなったのです。それまでは律法を頼りに生きていましたが、イエスさまとの出会いによって生きる拠り所が変わったのです。律法ではなく福音が彼を支え、導くようになりました。御受難を通して告げ知らされるこの福音をこそ、世に高々と示すべきだと語るのです。
イエスさまは十字架の上で全ての人のために祈られました。最後の瞬間まで、御自身を十字架につけた人々のためにも、その罪の赦しを祈られました。その御姿が人々を悔い改めに導き、私たちを悔い改めさせたのです。伝道者たるパウロもまた、イエスさまと共に十字架の苦しみを負い、人々に救いを宣べ伝えます。パウロは新しく造られることこそが大事であると教えます。割礼に代わる新たな目印が与えられるのです。それは律法に定められたしるしである割礼ではなく、十字架を通して示される新たなしるし、新しく創造され、生まれる命であると述べるのです。
一度、母親の体から出た者が何故新しく生まれることができるのか。イエスさまはファリサイ派の指導者ニコデモとこのような議論をなさったとヨハネは記録しています。この時イエスさまは、「誰でも水と霊とから生まれなければ、神の国に入ることはできない。」と仰いました。この御言葉が何を指しているのかは明らかです。水を潜って罪に対して死に、新たな命を受けて生きる、つまり洗礼が私たちを新しく作り変えるのです。この洗礼こそが私たちにとって唯一のしるしとなり、新たな基準となり、歩むべき道を示すのです。パウロは、この新たな基準によって生きようとする人々を祝福し、励ましを与えます。
17節でこの手紙の締め括りの言葉を述べますが、よりによって「もう私を煩わせないで欲しい」と書いています。とても消極的な印象を持たせる言葉ですが、パウロはガラテヤの人々のことを煩わしい、面倒臭いと考えていたのでしょうか。決してそうではないと思います。「煩わしい」という言葉は「労苦」という意味を持っています。パウロはガラテヤの人々が惑わされたために、悩み、苦しんだのです。ガラテヤの人々は「パウロなんて偽物だ」と非難する人々に惑わされました。だから、「わたしはイエスさまの僕としてのしるしを受けている。だから疑わないで欲しい。もう心配させないで欲しい」と願ったのです。この言葉の裏には、「あなたたちのこれからの信仰生活が平穏で豊かであるように」との願いが込められているのです。
宣教者であるパウロは焼き印を受けました。焼き印は大きな痛みを伴うしるしです。宣教者には痛みを伴うしるしが押されるのかもしれません。私は、この教会で皆さんと平穏に信仰生活を送りたいとだけ願っていますが、様々な働きの中で、それだけでは済まなくなるように思わされる時もあるのです。言わなければならないことがある。でもそれを言うと火の中に放り込まれてしまうのではないかと恐ろしくなるようなことがあるのです。特に、教師同士の何やかんやですとか、委員会のどうのこうのなどと言うのは常に頭痛の種です。関わらずに済ませようと思えば済ませられるのでしょうが、では主の御前に立つ時にその姿勢をもって誠を尽くしたと言えるだろうかと考えますと、私は恥じ入るしか無いだろうと思うのです。だから、今日の説教を準備していく中で、やはり言わなければならないのだろうと思わせられました。私が思い煩う必要など無いのです。主が私の悩みや苦しみを共に担ってくださるから、私が背負う以上にその重荷を背負ってくださるから、私は淡々と為すべきことを為し、語るべきことを語れば良いのだと気付かされました。
パウロは改めてガラテヤの人々のために祝福を祈ります。これからどのような困難な試練や誘惑に出会おうとも、ガラテヤの人々のうちなる霊は正しい道を見出すに違いないことをパウロは確信して祈るのです。
いつも私たちと共に居てくださる主イエス・キリストを信じて、今日を歩んで参りたいと思います。