聖霊降臨節第17主日礼拝説教

2023年9月17日

コロサイの信徒への手紙 3:12-17

「わたしたちの晴れ着」

今日の御言葉では5つの徳が紹介されています。これらはキリスト・イエスが持っておられる徳ですが、パウロはコロサイの教会に集う人々に、古い習慣を捨て、これらの徳を身に付けるように勧めています。

コロサイの教会はパウロの同労者であるエパフラスによって建てられた教会です。パウロは宣教旅行に際して、その土地の大きな都市を拠点として福音を宣べ伝えました。それら都市の周辺にある小さな町や村にも足を運んだでしょうが、自分で伝道するだけではなく、その土地に住んでいるキリスト者とも伝道の働きを分かち合っていました。必要に応じて手紙で質問を受け付け、それらへの返答を与えるという形での伝道も行っていたようです。おそらくパウロがエフェソの町に滞在していた時に、コロサイの教会と密接な関りを持っていたと推測されます。

しかし、パウロには心配の種がありました。正しい教えが充分に根付く前に、間違った教えが入り込んで来て、教会を荒らしてしまうのではないかという心配です。使徒言行録の20章を見ますと、エフェソを去るにあたって教会の長老たちに「わたしが去った後に、残忍な狼どもがあなたがたのところへ入り込んで来て群れを荒らすことが、わたしには分かっています。また、あなたがた自身の中からも、邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする者が現れます。」と、警告の言葉を残しています。果たして、コロサイの教会にも間違った教えが入り込んでしまいました。

その教えは、一つに哲学があります。ここで誤解を避けるために申し上げておきますが、ここで言う哲学と、現代の私たちが考える哲学とは違いがあります。私たちの考える哲学は、理性的な認識において世界を理解しようとする営みですが、この当時の哲学には神秘主義も含まれていたのです。神秘主義とは、超越的な存在が世界の至る所に隠した秘密の智恵を得ることによって、人間はより高みに昇れるとする考え方のことです。極端に言えば、知恵を身に付ければ人間は神の高みにまで昇れるという考え方が古代にはあって、しかもそれが大流行していたのです。天使礼拝もこの類であったのではないかと推測されています。

他にも、律法主義・戒律主義の脅威については度々お話をしてまいりました。コロサイの教会にも御多分に漏れず、律法主義者が入り込んで来て、異邦人キリスト者を惑わしていたようです。パウロは戒律主義に対して、「独り善がりの礼拝、偽りの謙遜、体の苦行を伴っていて、知恵のあることのように見えますが、実は何の価値もなく、肉の欲望を満足させるだけ」と、厳しく批判しており、これらに囚われることは世を支配する霊の支配に戻ってしまうことであり、自己満足と自己中心を育ててしまうと警告しています。

このような見せかけの智恵や徳ではなく、キリストの徳を身に付け、神さまに選ばれた者として生きるようパウロは勧めます。パウロは憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容の5つの徳を挙げています。これらの徳を、造り主の御姿に倣う新しい人として身に着けよと教えます。

新しい人は誰かを中傷したり、悪意で理解したりしません。「世界の裏には陰謀が張り巡らされている」というような邪推をしません。目に見えないそれらに囚われることは、偶像に惑わされ、支配されているのと変わりがありません。

教会は、世の中に善を広めたいと願っています。教会に集う多くの人々が、悩んだり苦しんだりしている人を何とかして助けたいと願っています。しかし、時にその思いがどこかで捻じ曲がって、別の誰かに対する疑惑や敵意という偶像を生んでしまっています。偶像を通して世界を捉えていて、本当に愛を行えるものでしょうか。特に、義憤というヤツは極めて危険です。人は自分が正しいと信じ込んでいると、平気で人を傷付けてしまいます。「正義を行う」という思いが、その人を独善的、自己中心的にし、ついには自分が満足するために力を振るうようにさせてしまうのです。私自身、疑り深い者ですので余り強くは言えないのですが、疑うとすればまず自分自身の正義をこそ疑うべきではないでしょうか。まず自分の正義に疑問符を付けてみることで、人間はわずかでも謙遜になり、相手を赦す可能性を、そして互いに理解し合い、赦し和える可能性を得られるのではないかと考えています。そこまで至れずとも、争いを避ける可能性を見出し得るのではないかと考えます。

私は目に見えない疑惑や敵意などという偶像に囚われるよりも、柔和や寛容にとらわれていたいと願います。同じ目に見えないものの力を受けるのであれば、愛や憐れみから出ている力をこそ受けたいと願います。世の力や風説に押されて誰かを非難し、裁くよりも謙遜になり、互いに赦し合う方をこそ選びたいのです。過ちがあったとしても、それを裁き、責めるのではなく、ともにより良い道を探るような働きかけをしたいと願うのです。

パウロは「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのだ。」と述べます。まるで服を着るかのように、新しい人を着なさいと勧めます。この服は一見すると、あまりにも貴くて自分には馴染みそうにないかのように思えます。しかし、着ているうちに服は体に馴染みます。いえ、体が服に馴染むように成長していくのです。

新しい服は子どもの体に比べるとブカブカで、馴染んでいないように見えますが、成長するに従って丁度よいサイズになります。服が変わるのではなく、子どもが大きくなるのです。赤ちゃんの服を着ていた子どもが、いつしかお兄さんお姉さんの服を着るようになり、ついには大人の服を着るようになります。それと同じで、私たちも主が着せてくださった服を着て生活しているうちに少しずつ成長します。その服が小さくなる頃に主は新しく、もう少し大きな服を着せてくださいます。そうして私たちも大きくなっていくのです。いつしか、自分をも他者をも疑ったりせずに、あるがままの互いを大切にしあえるようになるはずです。だから、私たちは神さまが与えてくださった服を敬遠するのではなく、感謝をもってこれを着て、真の智恵をもって互いに仕え、共に神さまを賛美するのです。

5つの徳という名前の服を晴れ着として身に着けて出掛けてまいりましょう。

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