聖霊降臨節第18主日礼拝説教

2023年9月24日

テモテへの手紙Ⅰ 6:1-12

「得るべき利得」*礼拝にお子さんが出席していたため、原稿と実際に話した説教の内容に大きな違いがあります。

聖書を読んでいますと、時折受け入れがたい、理解しがたい言葉に出会うことがあります。今日のこの箇所がそれであるという方も居られるかもしれません。読み方によっては、あたかも奴隷制度、身分制度を肯定しているかのようにも受け取れるからです。パウロは身分制度という社会的な制度の転覆を考えてはいませんので、それはある意味においてその通りではあるのです。しかし、この時代の奴隷制度がどのようなものであったかを考えますと、これは雇用の一形態であると言えます。確かに隷属関係にはあるのですが、これをアメリカにおける黒人奴隷のような制度と同じようには考えられません。パウロは一体ここで何を言いたいのでしょうか。

自分の主人を侮るなとパウロは言っています。この当時のキリスト者は、特に奴隷は少し微妙な立場に置かれていました。彼らは福音によって救いを約束されましたが、同時に福音を受け入れていない人、キリスト者ではない人を意識するようになりました。そして、福音を受け入れていない人に対して優越感を持つ者も現れました。それが問題だったのです。

主人に対して優越感を持っている奴隷というのは、主人にとっては厄介な存在です。それによって反抗的な態度を取る者も居たでしょうし、そこまで露骨ではなくても言葉や仕草の端々にそれが出てしまうだろうと想像できます。こういうことが頻発すれば、「キリスト者の奴隷は反抗的で鼻持ちならない。役に立たない。」として、社会の中でより不利な立場に置かれてしまいます。

主人がキリスト者であった場合はどうでしょうか。主人と僕の関係であっても、教会では「兄弟」として対等な立場になります。しかし、普段の生活の場に戻った時にもそのままでは、主人は困ってしまいます。仕事への甘えが出たり、便宜を期待されたりする可能性があります。もしそれを許せば、他の奴隷にとってはそれが不満の種になってしまうでしょう。また、この主従関係をキリスト者ではない他者が見たならば、キリストの教えは社会を混乱させるという印象を持つ可能性があります。

当時、キリスト者は微妙な立場に置かれていたと申しました。周囲の人々にとっては何やら新しいと称する教えを信じる、奇妙な人々だったのです。彼らは自分たちが信仰する神々を拝みません。ユダヤ人のように唯一の神を拝んでいますが、ユダヤ人からはいじめられています。自分たちがキリスト者であると知れたら迫害が始まってしまうかもしれないので、キリスト者であるということ、礼拝で行われていることを隠そうとします。

こういう奇妙な人々を遠くに眺めている分には問題視する必要も無いでしょうが、自分たちの生活に不安をもたらしたとしたらどうでしょう。キリスト者である奴隷の態度が良くなかったり、キリスト者同士である主従関係がおかしかったりしたら、世の人々は「あぁ、キリストの教えとやらは危険思想なのだ」と判断しかねません。奴隷である個人の「優越感を得る」、あるいは「便宜を期待する」という利益のために「福音がより多くの人々に聴かれ、受け入れられる」というキリストの利益が損なわれてはならないから、仕事は仕事として手を抜いてはならない、それぞれの立場を守れと言うのです。

また、当時の教会の中には世の価値観、個人的な利益や快楽に囚われ続けている人たちも居ました。これらの人々は教会の中でいたずらに議論を吹っ掛け、その議論における勝利に快感を覚えていました。彼らは最早、キリストの教えを語りません。本来、教会で語られるべきは“神さまが語り掛けて下さる言葉”であるはずなのに、この人たちは自分たちで考えた、自分たちの理屈を語るのです。そして、聴衆から与えられる賞賛や、追随する人から得られる金銭に溺れてしまっているのです。信仰を売り物にしていたのです。

人間の欲は、遭難した人が海水を飲む様子に似ています。塩気によって、飲んでも乾きを癒されず、かえって死を近付けてしまうのです。名誉や金銭への執着はこれと同じ危険性を持っているのです。これを得る機会を握りしめていたくなり、これらをどうしても自分で手に入れなくては我慢できなくなってしまいます。しかし、実はそれによって失う物の方が大きいのです。その大きさに気付けなくなってしまうのです。パウロはそれらの人々に対して「キリストの教えは、私たち個人が利得を得るためにあるのではない。」と指摘します。その上で、「彼らが求めている利得よりも、もっと大きな利得があるのだ」と教えます。

もちろん人間は誰しも、食べなければいけません。寒さをしのげなければ凍えてしまいます。最低限の生活は守られるべきですし、それを手に入れる努力を否定できる者は居ません。しかし、どこかで満足を知らなければ、いつまでも欲求に駆り立てられ、追い立てられ続けるようになってしまうでしょう。

富に執着し、せっせと積み上げる。この当時ですから、袋に入れた硬貨を積み上げるわけです。いつしか袋が増える様子だけがその人の心を満足させ、袋が減ると悲しむようになります。富が減ると不安になってしまいます。それがイヤだから、さらに硬貨の入った袋を積み上げますが、何かの拍子に積み上げられた袋が自らの上に崩れ落ち、潰されてしまう。それまでの努力の結果にかえって苦しめられる結果に陥るのです。通貨がデータ化された現代の私たちには想像しにくい例え話だったかもしれませんが、私たちは富に対しては主人として振舞うべきであって、富に追われるようであってはならないのです。私たちは本当に自分を生かすものが何なのかという、大事な問いへの答えまず求めるべきであって、またその答えを見出したならば、その答えが示されたならば、それをこそ愛するべきなのです。

神さまはパウロを通して私たちに信頼を語ります。「あなたなら出来るはずだ」と信じてくださっているからこそ、語り掛けてくださいます。私たちが追い求めるべき物を教えて下さっています。私たちは礼拝に招かれ、そこで恵みを受けて養われています。自分個人の満足を求めるだけであれば、これで十分でしょう。次により多くの利得を求めるのであれば、私たちは神さまから頂いた恵みを他者に対してどんどん譲るべきです。これは物質的な意味で言っているわけではありません。もちろん、持っている物を持てないでいる人に分け与える行いには尊さがありますが、ここでは物質的な問題を主題としているわけではなく、もっと霊的な問題を述べています。私たちが神さまから頂いた大きな恵みとはなんでしょう。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

私たちの罪には赦しが与えられました。神さまは私たちの弱さを理解し、受け容れてくださいました。この大きな恵みを通して私たちは救われ、永遠の命を与えられました。今、私たちも私たちが赦されたように私たちに負い目を持つ人を赦す。私たちの弱さを受け容れていただけたように、私たちも誰かの弱さを理解し受け容れる。そうやって、愛が損なわれているところに愛を建て、希望が失われているところに希望を取り戻すのです。私たちは、私たちの生きる姿を通して人々に永遠の命の中に生きる喜びを示すのです。積み上げられた袋と違い、この喜びはどれほど増しても私たちを潰しません。それどころか、朽ちない豊かさを私たちに限りなく与えてくれます。

社会は私たちを見ています。私たちの生き方を見ています。そして、私たちの姿を通してイエスさまの教えを見ています。私たちは満足を知らぬ者であって良いでしょうか。私たちは不満をばかり言い続けて良いでしょうか。世の人々が私たちを見るその時に、イエスさまの御姿を歪めて示してしまわないよう、避けるべき物を避け、求めるべき物を求めましょう。世が不満に満ちている時であればこそ、私たちは満足を持って歩んで参りましょう。

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