聖霊降臨節第15主日礼拝説教

2023年9月3日

コリントの信徒への手紙Ⅱ 11:7-15

「受けるべき報酬」

何かを伝えるために自ら痛みを負うというやり方を選択する人たちが居ます。言葉で伝えてくれれば良いではないかと思われるかもしれませんが、彼らは敢えて言葉ではなく、自らの痛みでメッセージを伝えます。その行為に違和感を覚える人も多く居るかもしれませんが、それはそれほどに彼らが抱えている問題が根深いものであるという証拠であり、しかもどうしても分かってもらいたい、聴いてもらわなければならないという強い思いがそこに存在しているから、その手段を選択させるのです。

最近の例で言いますと、池袋のとあるデパートで起きたストライキなどはその類ではないかと思います。店舗の売却を翌日に控えた日にストライキを打ったところで何になるのかと言われればそれまでです。それまで労働組合は何をしていたのか、もっと早い段階で行動を起こしていたならば結果を変えられたかもしれないのに、今頃になってストライキをしても何の意味も無い。そのように言う人も居ますし、それは確かにその通りなのでしょう。私などは「組合としては労働者のガス抜きをしたかったのではないか」というような穿った見方も視野に入れてしまいます。今回の行動の裏にあった労働組合の意図がどのようなものであったのか、当事者ではない私たちには知るよしもありませんが、ストライキを決行した労働者たちの想いは理解できると思います。店舗の売却によって自分たちの生活が大きく損なわれるのではないかという不安があるのだ、それをみんなに知ってもらいたいのだという叫びがそこから聞こえてくるのです。

パウロもまた叫んでいました。

コリントの教会はパウロが2回目の宣教旅行をした際に、その基礎となる集会が形成され、それが成長して建てられました。聖書はパウロがコリントの教会に宛てて書いた2通の手紙を収めていますが、実際にはもっと頻繁にやり取りがなされ、この2通以外にも何通かの手紙が存在していたと考えられています。少なくとも、コリントの信徒への手紙Ⅰと今日読まれたⅡとの間にもう1通の手紙があったことは確実視されています。手紙の本数は、パウロがコリントの教会に注いだ愛情の大きさを示すと共に、コリントの教会が直面していた問題の大きさをも伺わせます。教会を混乱させる人々が外部から入り込んでしまったのです。しかも、その人々は一見すると正しいことを言っているように思えるのです。

彼らはパウロがかつてコリントに滞在した際に、生活をするために必要な援助をコリントの教会から受け取っていなかったという事実を、「それは不自然だ」として攻撃材料にしました。手っ取り早く言いますと、パウロはコリントの教会から謝儀を受け取っていなかったのです。それを単に水臭いとかという次元ではなく、後ろ暗いところがあるからパウロは謝儀を受け取ろうとしないのだと言うのです。

もちろんパウロは自分が謝儀を受ける権利を持っていると理解していましたが、敢えて受け取らなかったのには理由がありました。パウロは他者の利益のために労苦する者だけが得られる満足を教えたかったのではないかと考えます。

今日の箇所の少し前、8章では困窮の中にある人々のための援助を自発的に行うように促し、9章ではエルサレムの教会のために献金を用意してほしいと率直に依頼しています。自分の日々の糧のためには何も言わなかったのに対し、他者ためにはパウロは言葉を飾らずに献金を依頼しています。自分の利益の利益のためにではなく、他者のために働いてほしい、惜しまず手を差し伸べてほしいという願いを、自らの痛みによって、つまり本来であればコリントの教会から謝儀を受け取る権利があるにも拘わらずそれを放棄するという行為によって伝えたかったのです。

ではパウロはコリントに滞在していた間の生活費をどのようにして得ていたかと申しますと、マケドニア地方の諸教会からの援助によってそれを賄っていたのです。パウロは9節でこれを告白していますが、この告白はパウロにとっては辛かったのではないかと思います。もし私がパウロの立場に置かれたならば、「なぜこんな事まで言わせるのか」と怒鳴ったかもしれません。

牧会者はこれと同じような立場に置かれることがあります。それも、恐らく皆さんが想像するよりも頻繁に。私ですら、パウロの行いからの発想ではありませんが同じような決断をした経験があります。それは、教会の姿勢に改めてもらいたいところや気付いてもらいたい何かがあるためであったり、次に来る教師のためにであったりと、状況によって違いますが、言葉では理解を得られないであろう何かを伝えるために牧師は身を削るのです。自分でこれを言うのは自らを誇るようでとても恥ずかしいことだと思っていますが、敢えて恥を晒すパウロの姿勢に倣って私も少しお話をしたいと思います。

神学生は特別な事情が無い限り教会の籍を母教会から移しません。母教会との繋がりを大切にするからです。地方の教会から神学校に入学した神学生であれば、夏休みなどには里帰りをして、学びの成果を見せたりします。そして母教会が奨学金を支給するというケースも多々あります。私が所属していた教会はそれなりの規模でしたので、奨学金が支給されるはずだと牧師は話してくれましたが、私はこれを回避しました。というのも、私は神学校に入学する前には母教会で役員として奉仕していたので、教会が経済的に危機的状況にあると知っていたからです。年毎に厳しくなっていく経済状況を憂いていた牧師が謝儀の減額を申し出るほどでした。役員会はこの申し出を否決しましたが、これに困った牧師は何と辞任を申し出ました。自分よりも若い牧師を招聘し、謝儀の支出を少なく収められるように取り計らおうとするほどに教会は困窮していたのに、役員会はその事実に気付いていませんでした。将来牧会者を志す者として知っておいても良いだろうと牧師が私に話をしてくれたので、二つの議決の裏側にある牧師の想いを知っていました。奨学金なんて到底受け取れるわけがありません。でもこれを言葉で伝えたとしたら、教会はどう思うでしょう。大丈夫だからと奨学金を支給してくれるでしょうし、そのように気を回させてしまったことを恥じるかもしれません。それがイヤだったので、神学校入学の直後、神学校が斡旋してくれた実習教会に籍を移しました。

何も言わずにいきなり移してしまったので、母教会にとっては薄情な行為として映ったかもしれません。母教会は私の真意に気付いたかと言いますと、ちょっとどうかな…という感じではありました。別の理由、自然に受け止めてもらえるような理由を伝えておいたので、そのせいもあるかもしれません。ただ私は、誰も気付かぬ間に教会が危険な水域に入り込んでいると伝えたかったのです。辞任を申し出た牧師が伝えたかったことを、私も重ねて伝えたかったのです。

人の行いの裏に想いが秘められています。表に出されない想いに気付くのは難しいものです。もちろん想像の翼を明後日の方向に飛ばしてしまうというような状況は避けるべきではありますが、表面に現れている事象だけを見て物事を判断しようというのは短絡的に過ぎると思います。ましてやその行いを悪意で解釈し、嘲り、誹謗中傷の種にするなどもってのほかと言えます。

パウロは受けるべき報酬を敢えて放棄して、大切なメッセージをコリントの人々に伝えようとしました。私たちの周りにも同じような出来事があるのではないでしょうか。そのような時、その人の行いを疑ったり、「せっかくの好意を拒絶した」と憤ったりするのではなく、なぜそうするのか、そうせざるを得なかったのかを少し想像してみませんか。もしかすると、その人が伝えたかった何かが、その人が守りたかった、大切にしたかった何かが見えてくるかもしれません。

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