降誕節第3主日礼拝説教

2024年1月14日

ヨハネによる福音書 1:35-51

「イエスと共に歩む者」

今日の聖書の御言葉には、「見る」という言葉がいくつも出てきます。この箇所のテーマは「見る」です。

洗礼者ヨハネはイエスさまが歩いておられるのに気付いて注目しました。彼は二人の弟子たちに「見なさい。神の小羊だ」と言います。先週読まれた箇所は、今日の箇所の前日に起きた出来事でしたが、そこでもヨハネはイエスさまを指して「神の小羊だ」と言いました。神の小羊は、全く傷の無い生贄であり、イスラエルの民を護り、救うものでした。ヨハネはイエスさまを、御自分を差し出して私たちを守ってくださる方であると証言したのです。

ヨハネと一緒にイエスさまを眺めていた二人の弟子たちは、ヨハネの言葉を聞いてイエスさまの後について行きました。もし現代の教会において同じようなことがあったならば、二つの教会の間で信徒を奪った奪われたという諍いが起きてしまうかもしれませんが、二人の弟子たちはヨハネの指示によって彼の下を去ったと解釈する方が、事実に近いだろうと思います。ヨハネはイエスさまが自分に優る方である、それも決定的に優れた方であると気付いていたからです。彼はイエスさまの御姿に神さまの御力を見ていたのでした。

二人の弟子たちが後について来るのを御覧になったイエスさまは、二人に何を希望しているのかと問われます。弟子たちの返事は少し奇妙に思われます。彼らはイエスさまに「先生」と呼び掛けているのですから、教えを求めるのが普通ではないかと思いますが、彼らはイエスさまの宿がどこかを尋ねています。旅する中でどのように生活しているのかを見たいと答えたのです。するとイエスさまは「来なさい。」と答えられました。イエスさまは御自身の生活の中に二人の弟子たちを招き入れられました。二人はイエスさまについて行き、その生活を見ました。これは午後四時、ユダヤ人の感覚で言うならば一日の終わりに起きた出来事です。

二人のうちの一人はアンデレでした。彼は兄シモンの所に行って言います。「私たちはメシアに出会った。」

福音書記者ヨハネも但し書きをしていますが、メシアとは「油を注がれた者」という意味の言葉です。油を注がれた者とは、神さまによって選ばれ、聖霊を注がれて、その力によって神の民を支配する王であり、救い主です。アンデレは「救い主に出会った」と兄に伝えました。ここで「出会った」と訳されている言葉は、“Εὑρήκαμεν”というギリシャ語の単語です。アルキメデスが「アルキメデスの原理」を発見した時に叫んだ「エウレーカ!」という言葉の1人称複数完了形です。つまり、「わたしたちは救い主を見付けた! 救い主が誰か分かった!」と伝えたのです。

弟に連れられてシモンもイエスさまのもとに行きました。するとイエスさまはシモンを一目見るなり誰であるかを言い当て、「ケファ」というあだ名を付けられました。イエスさまはシモンと出会う前から彼を知っておられたのです。

弟子たちとの出会いは続きます。次の日、イエスさまはガリラヤへの途上でフィリポに出会い、彼を召し出されました。フィリポはナタナエルの所に言って言います。「聖書にしるされている方、救い主に出会った。ナザレの人でヨセフの子イエスだ。」

イエスさまを「ヨセフの子」と呼んでいる所を見ますと、フィリポはイエスさまが救い主であると気付いてはいましたが、神の御子であるとまでは気付いていなかったようです。フィリポの言葉を聞いたナタナエルは疑問を口にします。旧約聖書には「ベツレヘムからイスラエルを治める者が出る」とは書いてありますが、ナザレに関する記述は全くありません。だから、預言の成就としておいでになる方がナザレ出身であると言うフィリポの言葉を今一つ信じられなかったのです。疑うナタナエルに対してフィリポは「来て、見てみろ。」と強く勧めました。まるで自分の目で見たら絶対に分かるからと言わんばかりです。

ナタナエルがイエスさまの御前に立つよりも前にイエスさまは彼を御覧になり、彼を「真のイスラエル人だ。」と仰います。イエスさまはナタナエルの出自を言い当てられたようにも解釈できますが、「イスラエル」という民族の名の意味が「神の民」である点を考えますと、イエスさまはナタナエルが心の内で神さまの御救いを純粋に求めていると気付かれ、それを指摘されたのだと思います。

ナタナエルは秘めた思いを言い当てられ、とても驚き、「なぜ私をそこまで理解できたのですか」と、イエスさまに質問します。イエスさまはナタナエルがフィリポに会う前に何をしていたのかを見ていたと仰います。ナタナエルはイチジクの木の下に居ました。そこで何をしていたのかまでは仰っていませんが、この頃のユダヤ教の教師たちは木の下で教えたり学んだりすることを好んでいたそうなので、もしかするとナタナエルは誰かから聖書の説き明かしを聞いていたか、自分で聖書の学びをしていたのかもしれません。ナタナエルがイエスさまと出会うよりも前に、イエスさまは御言葉を求めるナタナエルの気持ちを知っておられたのです。

私がこの方に会うよりも前に、この方は私を知っていてくださる。そして、疑う気持ちを持って近付いて来るような私をも理解し、受け容れてくださる。そう気付いたナタナエルは、彼よりも先にイエスさまの弟子となった人々よりも深くイエスさまを理解し、告白します。

「この方こそ神の御子、この方こそ神の民の王」

私たちがイエスさまに出会うよりも前に私たちを深いところまで理解してくださっている。それだけでも充分に奇蹟、徴と呼べる御力をイエスさまは見せてくださいました。その一方でイエスさまは、御力を見て初めてイエスさまを信じられるようになったナタナエルに、「わたしの力を見たから信じたのか」と問われます。このような問いには、「見ないで信じる者となりなさい」という、信じなかった過去を半ば咎めるような勧めが続くのではないかと連想しますが、イエスさまは「もっと大きなことを見るだろう」とだけ仰いました。

イエスさまは私たちが見るであろう光景を続く言葉で教えてくださいます。それも強い確信を持って。新共同訳では「はっきり言っておく」と訳されていますが、ここでイエスさまは「アーメン、アーメン」と二度繰り返して仰っています。信仰に基づく極めて強い確信です。

「天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」

イエスさまの上に神の天使たちが昇ったり降りたりする。つまり、今地上に居られるイエスさまと神さまとが強く結び合わされている様子を弟子たちはこれから見るのです。

洗礼者ヨハネは律法と預言という、救いを待ち望む者のための教えに立って、イエスさまを見ました。彼はただちにイエスさまが救い主であると気付きました。洗礼者ヨハネの助言を受けた二人の弟子たちは、イエスさまの生活を見て、イエスさまと一緒の生活に招き入れられ、そこでの体験を通してイエスさまこそ救い主であると気付きました。イエスさまと自分が出会うよりも前に自分に目を向けて見ておられ、知っておられ、理解し、受け容れてくださると知ったナタナエルはイエスさまが神の御子であると気付きました。さらにこれから彼らはイエスさまと一緒に方々を旅して、子なる神としてのイエスさまの御業の数々を見ることになります。そして、彼らは旅での経験を通してイエスさまを証しする者となりました。

イエスさまは私たちとも旅をともにしてくださいます。生活の随所で私たちはイエスさまがともに居てくださると感じます。その経験によって私たちはイエスさまを証ししようとする時、私たちの力を遥かに超えた聖霊が働き、何者よりも雄弁に私たちに神さまの御栄光を語らせるのです。

私たちが誰かの旅の道連れとなる時、そこにイエスさまも一緒に居られ、その人に救いの御手を伸べられるのです。

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