2024年1月21日
ヨハネによる福音書 2:1-21
「イエスと共に歩む者」
イエスさまは結婚式に招かれました。カナがどこにあったのか、一説ではナザレの北14キロの地点にある遺跡がそれではないかと言われていますが定かではありません。当時、結婚式は共同体全体による祝い事でした。村なら村を挙げて村人総出でお祝いしていました。今でも中東では、何日もかけて大々的に宴会を催し、会場の前を通りがかった人も誰かれなく招かれて盛大にお祝いするそうです。主催者の気持ちとしては、「来てくれるなら誰でもどんどん来てお祝いして欲しい」と願っているのでしょう。イエスさまも招かれたので、弟子たちと一緒においでになりました。イエスさまよりも先に母マリアがカナに居るところ、さらにはマリアが酒の心配をしている様子を見ますと、もしかすると結婚する男女のうちのどちらかがマリアの知人か親類で、マリアは結婚式の手伝いを頼まれていたのかもしれません。彼女は単に客としてではなく、宴会の主催者側として立ち働いていたので、用意していた酒が出尽くしてしまったことに気付きます。そこで彼女はイエスさまに「ぶどう酒がなくなった」と伝えます。この時から、この結婚式はイエスさまと私たちの関係、私たちと救いの関係を象徴する出来事へと変わります。
マリアは酒が無くなってしまったので心配し始めます。このままでは、せっかく賑やかに楽しく進められていた祝いの席が終わってしまう、喜びの時が終わってしまう、どうにか終わりを回避したいと願ったのです。極めて普通の、人間的な希望だと思います。しかし、イエスさまはマリアをまるで相手になさらないような返事をなさいます。一見すると冷たい拒絶の言葉であるように思えますが、これにも大切な意味があるのです。続いてイエスさまは仰います。
「私の時はまだ来ていません。」
イエスさまは、時の変わり目を示そうとしておられました。
婚宴の主催者たちが用意していた酒で人々が喜んでいた時代とは、人々が救いや喜びを古い契約の中に見出そうとしていた時代を現しています。しかし、この喜びはいま終わろうとしています。喜びの席の中途で酒が尽きてしまう様子は、古い契約では神の国を完成させられない、人は完全な救いには至れないことを表しています。イエスさまは、救いとは人間的な欲求によって与えられるのではない、救いの業に関する主導権はイエスさまにあると示すために、マリアの要請を拒絶なさいました。しかし、だからと言ってイエスさまは婚宴に集まっている人、今はまだ酒が無くなったと気付いていない人たち、つまり古い契約の限界に気付いていない人たちをお見捨てになるわけではありません。時が満ちるのを待っておられます。マリアには、その時が来ればイエスさまが何かをなさるという予感があったので、彼女は召使いたちに「この方が言い付けるとおりにしてください」と、服従を勧めます。
婚宴の会場には石を刳り貫いて作った水がめが六つありました。これは普段の生活に使う水がめではありません。ユダヤ教の儀式で使うための水がめです。石には汚れを遮断する力があると考えられていましたので、宗教的な汚れを洗い落とすために用いる水は特に石の水がめに入れてありました。その水がめが6つもここにはあります。古代の神学者アウグスティヌスはこれを6つの時代の象徴と考えました。第1はアダムからノア、第2はノアからアブラハム、第3はアブラハムからダビデ、第4はダビデからバビロン捕囚、第5は捕囚からバプテスマのヨハネ、第6は主イエスから終末までという具合にです。今、イエスさまは召使いたちに、この水がめに水を満たすよう命じられました。生活の営みの中で、それぞれの時代を満たし、御救いの時が来るための準備をせよと命じられたのです。
水がめの容量はそれぞれ2から3メトレテスと記されています。1メトレテスが39リットルですから、一つあたり小さい物で80リットル、大きいもので120リットルです。蛇口をひねれば水が出る現代とは違います。ポンプもありません。召使いたちは井戸や水路から手桶に水を汲み、バケツに移して、概ね600リットルの水を運びました。一般家庭の浴槽の容量が200リットルから300リットルですから、その2-3倍の量の水を、何往復もして手で運んで汲んだのです。相当な労力です。
第1の時が満たされ、第2の時が満たされ、順番に水がめは満たされていきます。そして、ついに最後の水がめが満たされました。御救いの時が来たのです。イエスさまは召使いたちに命じて水を杯に入れて世話役に持って行かせ、味見をさせました。世話役が味見をすると、それは今まで飲んでいたぶどう酒よりも良い酒に変わっていました。
その時、水はぶどう酒に変えられていました。いつ変えられたのか、誰も気付きませんでした。
ぶどう酒が持つ意味を私たちは良く知っています。それは、人の罪を赦すために流された主イエスの血潮です。救いの時がいつ来るのか、またいつ来たのか、世話役には分かりませんでした。しかし、召使いたちは知っています。自分たちが苦労して運んだ水なのですから。御救いに至るまでに、私たちは重いバケツを背負って何回も歩かなければいけません。しかし、必ずその時は来るのです。
続いて世話役の口から出て来た言葉は面白いと思います。
「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」
これを誉め言葉であると解釈されることが多いと思いますが、私にはどうにもシックリきません。この世話役の言う通り、酔いがまわったころには味が分からなくなってしまうのですから、良いぶどう酒を出されても意味は無いように思うのです。私はこれを「どうせなら最初から出してほしかった」という苦情であると解釈しています。
世話役は人間的な思いの代表です。「アダムから今に至るまで、何も私たちにこんな辛く長い旅をさせずに、最初から救い主を遣わして下されば良かったではないですか」と、文句を言っているのです。でも、それではダメなのです。救いの御業は、私たちの都合でホイホイとなされるようなものではないからです。その時がいつなのかは、神さまがお決めになるのです。その時が来るまで私たちは、コツコツと水を汲んで時を満たさねばならないのです。
もしも、召使いたちが仕事を放棄していたらどうなっただろうと、私は想像します。もし辛い水汲みを諦めて居たら、その時は来なかったのでしょうか。
昨日、紅葉坂教会で伝道フォーラムがあり、お話を伺ってきました。講師は教会の歴史を三つに区分して俯瞰し、それぞれの時代の宣教の違いと、それぞれの時代を共通して貫通している宣教を語ってくれました。私は今、時代は第4の区分、宣教の第4の時代に突入しようとしていると感じています。ひとつの時代が満たされ、次の時代へと移り変わっているのだと、私たちは今、風向きが変わる瞬間に居るのだと感じています。風向きが変わるその瞬間、風は止まってしまいます。船は帆に風を受けなければ進めません。風が止まってしまうと、船乗りは不安に陥ってしまいます。それでも船は再び風が吹く時に備えていなければなりません。諦めてしまうのでもなく、慌てて足掻くのでもなく、冷静に次の風に備えるのです。今までとは帆の張り方を変えなければいけません。しかし、上手に風をつかめれば、風の境目を超えて船は進むのです。
来週は全体懇談会があります。今後の教会の在りよう、今後の伝道について皆さんと意見を交換したいと思います。私たちは将来、良いぶどう酒を味わえるでしょうか。これは私たちが水を汲み続けられるかどうかにかかっています。「それは牧師の仕事だ」と考えますか。私一人では、絶対に潰れてしまいます。召使いたちだって、みんなで水を汲んだのです。これは私たち全体の問題なのです。これは皆の問題なのです。あなたの問題でもあり、私の問題でもあるのです。だから、これからの教会のビジョンについて考える。これが今週一週間、私たちに与えられた宿題です。