降誕節第5主日礼拝説教

2024年1月28日

ヨハネによる福音書 8:21-36

「真実の教え」

昨日、神奈川教区教育委員会の教育研修会が横浜磯子教会で開かれ、私も委員として参加してまいりました。これは教会学校のリーダー向けに毎年行われている研修会で、例年ですと講師を招いて、その時その時の課題をテーマとして学ぶ機会となっているわけですが、今回のテーマは「祈り」でした。

この研修会を準備するにあたり、教育委員会は何回かの会議を持ちましたが、その席上で「祈りは我々にとって身近なテーマでもあるし、委員会の各教職で手分けをして論じてみてはどうか」という意見が出され、賛成が多数であったために、外部から講師を招くのではなく各委員で祈りの様々な側面について論じることとなりました。

「みんなで手作りの研修会をしよう」という基本的な考え方は、とても良いと思うのですが、なんと講師の一人に私が割り当てられてしまい、私としては少し戸惑ってしまいました。もちろん私は日々の生活の中で祈りを捧げてはいますが、さほど熱心に祈って居るわけではなく、また祈りについての考え方も一応自分なりのイメージを持ってはいますが体系立てて論じられるほど整理しているわけでもありませんので、何をどのように論じれば良いのか分からなかったのです。そこで改めて祈りについて論じている神学書をいくつか読んで、祈りについて考えてみました。すると、答えは聖書に既に書かれていると気付かされました。

イエスさまは私たちに「祈る時には異邦人のようにクドクドと述べてはならない」と諭され、続いて主の祈りを教えてくださいました。「天にまします我らの父よ」と始まりますが、神さまへのこの呼び掛けは、イエスさまが私たちを神さまとの親子の関係に導いて下さったという重大な意味を持っています。

父親と会話する時、私たちはどのように話をしていたでしょうか。幼児であった時には、拙い言葉でつっかえつっかえ話したのではないでしょうか。また、父親との会話の中では、自分が話すだけではなく、口を閉じて父親の言葉に耳を傾けてもいたはずです。日々目にする子どもの成長と私たちの信仰の成長を並べて考えた時、祈りはまさに父親との対話と同じ性質を持っていると気付かされました。「私たちの問いに対する答えは聖書にある」と、神学書は教えてくれたのです。神学書は、私を聖書へと導く助けの役を果たしてくれたのです。

さて、今人々はイエスさまを囲んで話を聞いています。イエスさまに問いかけ、答えを聞いています。そのやり取りの中で人々は「この人は一体何者なのだろう」という疑問を持ちました。教会に集まっている私たちにとっても大きな関心事であるはずです。何故ならば、それは私たちに与えられた使命、世の中に対してイエスさまを証しするという使命を果たすためには理解しておかなければならないことでもありますし、自分自身の救いにも関わる問いでもあるからです。しかし、私たちが明確に「こうだ」という答えを見出すのは、簡単ではありません。

その答えを教会での教えやカテキズム、つまり教理の解説や教育に求める方も少なくないと思います。私たちと同じような道をたどった信仰の先達たち、神学の研究者たちは多くの言葉を用いて問いへの答えに至る道筋を書き残しています。それらの書物を読めば、きっとヒントになる言葉や考え方を見付けられるだろうと思いますが、それが自分の実感になるかどうかは別です。神学書は答えそのものを示してくれるわけではないのです。あるいは、私たち聖書から読み取るイエスさまの御姿に、自分の理想を投影するかもしれません。しかし、その理想がイエスさまの本当の御姿と違ったならば、私たちが勝手に描いた理想像とのズレに苦しむかもしれません。

イエスさまとユダヤ人とのやり取りにも食い違いが見られます。彼らは彼らなりに律法、つまり聖書を研究して、よく知っているはずでしたが、自分自身の理解や知識の中にイエスさまを押しとどめようとしていて、イエスさまの御言葉をそのままに聞こうとはしていません。

今日のこの場面は7章から続く仮庵の祭りの中での出来事なのですが、イエスさまは繰り返しご自身と神さまとの関係について話しておられます。そして、「私を遣わした方の下へ帰る」とも仰っています。さらには「私はある」とご自身を啓示なさいました。これこそ、イエスさまがご自身の本質を明らかに啓いて示された御言葉です。

かつて神さまがモーセに御自身の聖名を問われた際に「わたしはあるという者だ」と答えられました。いまそれと同じ答えがイエスさまからユダヤ人たちに対して告げられました。イエスさまは御自身と神さまとが一つである、神さまの御許から地上に遣わされ、また神さまの御許へと帰られるのだと予告されたのです。この御言葉を信じるかどうかで、全てが明らかになるのか、あるいは覆い隠されたままなのかが別れるのです。

この啓示をうけてもなお、ユダヤ人たちは重ねて「あなたはいったいどなたですか」と問うています。イエスさまはもはや答えようとはなさいません。もう充分に語って来た、もはやなにも言うことはないと仰います。「初めから話しているではないか」と、その通りです。この問いへの答えは、この場面の最初の対話で既に語られています。「私の教えは、私のものではなく、私をお遣わしになった方のものである。」、あるいは、「私は勝手に来たのではない。私をお遣わしになった方は真実である。私はその方のもとから来た者である。」と。

最初から聞く気が無い、理解する気が無い人たちとの議論は泥沼化します。イエスさまを信じる人も居ましたが、ユダヤ人たちの中にはイエスさまが語れば語るほどいよいよ強くイエスさまを憎む者も居ました。これをユダヤ人の無理解と片付けるわけにはいきません。私たちも自分のこだわりや限られた知識に縛られているうちは、イエスさまを理解できないからです。イエスさまがどれほど言葉を重ねて大切な教えを語られたとしても、そこに真実があるが自分はまだそれを知らないという前提で、つまり知りたいと願って御言葉を聴かない限りは、イエスさまの御心を理解できようはずが無いのです。ただ一つ希望があるとすれば、イエスさまの十字架を見上げた時に初めて、イエスさまが誰なのか、またイエスさまが教えておられた事柄の本質が何なのかに気付けるという点でしょう。

イエスさまは私たちと共に歩んでくださいます。私たちはこの世へと遣わされ、イエスさまの熱を隣に感じながらこの世を歩きます。そして神の家に帰り、イエスさまの熱を隣に感じながら聖書を開き、神さまに問いかけます。神さまは必ず答えてくださいます。静まって、心を澄ませて耳を傾けましょう。

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