降誕節第2主日礼拝説教

2024年1月7日

ヨハネによる福音書 1:29-34

「神の小羊」

洗礼者ヨハネは、イエスさまを証しする者として遣わされました。ヨハネは、世の人々に語り掛けます。「私たちの光である方が、救い主がもうすぐおいでになる。喜んでその方を迎えよう。この方は弱い私たちをも救ってくださる。この方を信じ、歩もうではないか。」

世の人々はヨハネに問いました。「あなたはどなたですか。」世は救いを求める気分で満たされていました。それほどまでに厳しい時代だったからです。この時、洗礼者ヨハネに問い掛けた人々は、エルサレムから訪れた祭司やレビ人であり、その中にはファリサイ派に属する人々も含まれていました。特に「エルサレムから」という言葉が付け足されていることを考えますと、この人々の中には、エルサレムの神殿に属するサドカイ派の人々も居たと考えるべきでしょう。

エルサレムの神殿に属する人々にとっては、メシアを自称する者によって扇動された民衆による武装蜂起を恐れていました。それは彼らにとって治安の破壊だったからです。ファリサイ派に属する人々にとっては、メシア、つまり神の子を自称する者の出現その物が問題でした。それは彼らにとっては神を冒涜する行為であり、宗教的な破壊だったからです。

ヨハネはイザヤによる預言を引用して答えました。「私はあなた方を救う者、メシアではない。私は救い主の到来を告げる先触れなのだ。」彼は、救い主がおいでになるまでに、その方が歩まれる道を整え、そこで「あの方こそが救い主だ」と示すために遣わされた者でした。ついにその日が来ます。ヨハネのところにイエスさまがおいでになりました。ヨハネはイエスさまが来られるのを見ました。

私たちも、実はヨハネと同じように、イエスさまがおいでになるのを見ます。それは聖餐式においてです。聖餐のパンとブドウ酒には、聖餐式が始まるまでの間は白い覆いが掛けられていますが、これが取られて、パンとブドウ酒が私たちの目に表される時、私たちは正にイエスさまを見るのです。かつてはパンとぶどう酒の入堂によって、これを表していましたが、私たちの教会では覆いを取るという行為によって、それを象徴しています。

イエスさまがおいでになるのを見たヨハネは言います。

「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ。」

何故洗礼者ヨハネはイエスさまを子羊になぞらえたのでしょうか。それは、イエスさまが他の誰にも出来ないことを成し遂げられるとヨハネは知ったからです。それは十字架の上での死です。

この時代の人々が求めた救い主とは、イスラエルの民族を恥から解き放つ方でした。それは、かつてエジプトに捉えられていた時のように、異なる民族によって支配されているという恥であって、彼らにとっての救い主とはイスラエルの民族を解放する者でした。

出エジプトの前夜、イスラエルの人々は子羊を屠りました。この子羊は全く傷の無い子羊でした。神さまはエジプトの全ての家の長子を撃たれましたが、イスラエルの人々はこの子羊の流した血を家の入口の柱と鴨居に塗ったので、神さまはこの血を御覧になり、イスラエルの家を通り過ぎられました。これにより、イスラエルの家々の長子たちは死を免れました。この子羊の肉をパンと共に食べて、エジプトの地から旅立ちました。子羊は奴隷の状態からの解放の象徴だったのです。

ヨハネは自分が何者であるかを言い表すために、預言者イザヤの言葉を引用しましたが、イエスさまがどのような方であるかを言い表すためにもイザヤを引用しました。

「私たちは皆、羊の群れのようにさまよい、それぞれ自らの道に向かって行った。その私たちすべての過ちを主は彼に負わせられた。彼は虐げられ、苦しめられたが口を開かなかった。屠り場に引かれて行く小羊のように。」

これはイザヤ書53章の引用ですが、私たちの知っているイエスさまにピッタリと当てはまるとは思いませんか。ヨハネは救い主を「全ての人々の罪を赦し、解放される方」と捉えたのです。

洗礼者ヨハネはあくまでも、律法と預言の立場から人々に立ち帰りを勧める者でした。その語り掛ける対象は律法と預言の範疇にある者、つまりイスラエルの民族でした。それに対して、イエスさまの救いは全ての人に及びます。民族も出自も関係無く、全ての人にです。だから、ヨハネは彼の方に歩まれるイエスさまを見て、「この方は私にまさる」と述べたのです。

そして、この方、つまりイエスさまが神さまの御子であると知っていました。「わたしよりも先におられた。」という言葉は、イエスさまが子なる神であるということの表れです。ルカによる福音書によれば、洗礼者ヨハネはイエスさまよりも早く生まれていますが、ヨハネはイエスさまを「わたしよりも先におられた。」と言います。それはイエスさまが、「すべてに先立って父より生まれ」た方であり、また「造られることなく生まれ、父と一体」である方、子なる神であるということを表しています。私たちにはあまりなじみの無い言葉かもしれませんが、これは、「ニカイア・コンスタンティノボリス信条」の中に現れる、イエスさまを言い表す言葉です。イエスさまは私たちが生まれる前から私たちに関わり、共に歩んで下さり、最後には迎え入れて下さいます。後の世までも私たちと共に居て愛して下さいます。イエスさまはそういうお方です。

神さまの栄光は、私たちの人生において常に表されていて、それは洗礼を受けたから表に出るとか、洗礼を受けるのが遅かったからちょびっとしか表されないとか、そういう性質のものではありません。神さまの栄光とイエスさまの愛は、私たち人間の、一人ひとりの歴史が始まる前から表され続けていて、歴史が終わった後も表され続けるのです。

教会はイエスさまの体として、全ての人に注がれている神さまの愛を体現します。それが教会に与えられた働きです。その働きを私たちになさせる力を持つのは祈りです。私たちが互いを思って捧げる祈り、これまでの教会の歴史の中で捧げられてきた祈り、更にはこれからの教会を思って捧げる祈りが私たちにそれをなさせるのです。

ヨハネはイエスさまがこれからなさることとして、洗礼を挙げました。私たちが洗礼を受ける際に注がれる水は、いったいなぜ洗礼を授ける力を持つのでしょうか。特別な水なのでしょうか。洗礼に用いられる水は、元を質せばただの水です。それがどのような水であるかは全く問題ではないのです。ヨルダンで汲まれた水であろうと、アルプスの美味しい水であろうと、同じ水です。

ヨハネは言いました。

「霊が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である。」

イエスさまは聖霊によって洗礼をお授けになります。この聖霊の力は、今では教会に、イエスさまの体である教会に委ねられていると、使徒言行録第8章14節から17節に記されています。

「エルサレムにいた使徒たちは、サマリアの人々が神の言葉を受け入れたと聞き、ペトロとヨハネをそこへ遣わした。二人は下って行って、聖霊を受けるようにとその人々のために祈った。人々は主イエスの名によって洗礼を受けていただけで、聖霊はまだ誰の上にも降っていなかったからである。二人が人々の上に手を置くと、聖霊が降った。」

祈りを通して私たちに聖霊の力が与えられました。私たちが用いる水は聖霊によって洗礼を与える力を持つ水となります。私たちは祈りによって洗礼に与り、聖餐の恵みに与って、イエスさまと結び合わされ、一つの体となるのです。

イエスさまは、昔も今も、私たちのために祈って下さいました。私たちが生まれる前から、地上での生涯を終えた後にも祈って下さいます。イエスさまの体である教会もまた、昔も今も互いのために祈ります。

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