2024年10月13日
ヘブライ人への手紙 9:11-15
「傷の無い捧げもの」
今日与えられた聖書の御言葉は、どちらも犠牲を取り上げています。士師記ではエフタという士師の娘が犠牲として身を捧げた出来事が語られ、ヘブライ人への手紙ではイエスさまが御自身を捧げられたことの意味を説いています。これら二つの犠牲には、一致する点もありますが違いもあります。この一致点と相違点が神さまと私たちとの関係を教えています。
士師とは、聖書以外では聞かない言葉です。字面を見ますと、士(サムライ)と師(導き手)の二つが合わさって出来ている言葉であると分かりますが、ヘブル語では「統治する者」や「裁く人」という意味を持つ言葉です。この言葉を士師と訳したのは、恐らく中国語聖書であろうと思われますが、中々上手い訳であると思います。と言うのも、士師は単に政治や裁判を行うだけではなく、外敵が攻めて来た時には戦いの指揮も執ったからです。また、神さまの御言葉を取り次ぐ役割も担っていました。当時のイスラエルでは宗教と政治が一致していましたから、士師は宗教的指導者であり、政治的指導者でもあり、さらには軍事的指導者でもあると言えます。
士師記には15人の士師たちの活動が記録されていますが、これらの人々は大士師と小士師の二つに分けられます。大士師は他民族からの圧迫から民を救う英雄であり、後者は外敵の攻撃とは直接関係しない、裁判人や仲裁者を指します。今日、読まれた箇所は大士師エフタの物語です。
エフタはギルアドの生まれでした。ギルアドとは、カナンに定住した12部族の内、ヨルダン川の東側に定住したマナセ、ガド、ルベンの三つの部族の総称です。エフタは族長ギルアドが遊女に産ませた子どもであるために、ある程度大きくなると家から追い出されてしまいました。エフタはならず者たちと一緒に生活するようになりました。
しばらくしてアンモン人とイスラエルとの間に戦いが起こると、ギルアドの長老たちはエフタに指揮官となってくれるように依頼します。エフタは、出自を理由に追い出されたという過去を理由として断りますが、強い説得を受けてこれを承知します。
エフタは、いきなり戦いを始めようとはしませんでした。アンモン人の王に使者を送り、平和的に解決できないかと交渉します。この交渉が決裂して初めて、エフタは戦を決意します。軍を進める中、エフタは誓いを立てました。「神さまがこの戦いを勝たせてくださったならば、家に帰った時に最初に家から迎えに出て来る者を焼き尽くす生贄として捧げる。」
ずいぶん無茶苦茶で身勝手な誓いだと思います。自分は絶対に犠牲とはなりませんし、犠牲になる者は自分の意志とは全く関係の無いところで勝手に犠牲とされてしまうわけですから。しかも、神さまに誓っていますから、これを違えるわけにはいきません。そもそも神さまは犠牲など求めておられませんでした。エフタは神さまに念を押したかったのでしょうか。だとすれば、犠牲は霊の力への不信の表明となってしまいます。
エフタは戦いに勝ちました。凱旋したエフタを迎えたのは、たった一人の子どもである、娘でした。エフタは嘆きましたが、どうしようもありません。
娘は父の立てた誓いを果たすために犠牲となることを承知します。娘は乙女であるまま、父の立てた誓願の通りに犠牲となりました。
ヘブライ人への手紙では、古い犠牲と新しい犠牲とが対比されています。旧約聖書に記録されている贖罪の儀式と、キリストの贖罪の死とを比較して、十字架の死の意味を説き明かしています。
イエスさまは、人が造った制度の故に命を捧げられたわけではありません。また、人の思惑のために死なれたわけでもありません。「人間の手で造られたのではない、すなわちこの世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通られた」という言葉がそれを示しています。
12節ではキリストの犠牲は「永遠の贖い」であったと述べられていますが、これはキリストの犠牲と、それによって与えられる赦しが一時点における出来事ではなく、あらゆる時間、あらゆる時代、あらゆる世代に渡って与えられるという意味です。
では、永遠の贖いと比較されているのは、永遠ではない贖いであり、永遠の贖いを私たちに与え得ない犠牲、不完全な犠牲です。
祭司たちは毎年、秋に行われる贖罪の日の祭りの中で雄山羊と雄牛の血を祭壇に振り掛けて民の罪を贖います。これは毎年繰り返されなければなりません。つまり、繰り返されなければならないという事実こそが、人の捧げる贖罪の生贄が決定的な赦しを与える力を持っていない、不完全な捧げものであるという証拠です。
なぜ、祭司たちの捧げる犠牲は完全な捧げものとはならないのでしょうか。その理由は、それが人間によって選ばれているからです。人が用意した捧げものは、どれほど注意深く選んだとしても、何らかの傷があります。それは目に見える傷という意味ではありません。どうしても人間は身勝手さから自由になれない、犠牲を捧げるにあたっても、身勝手さを取り去れないという現実があります。
エフタは、そもそも犠牲など捧げる必要がありませんでした。なぜならば、主の霊が既に彼に臨んでいたからです。主の霊が彼に注がれていたのですから、負けるわけが無かったのです。それなのに、彼は立てなくても良い誓いを立ててしまい、その結果、娘が犠牲とならざるを得なくなってしまいました。
人間の業には限界があり、完全な業などあり得ないのです。私たちプロテスタントの神学の基礎を築いたカルヴァンやルターでさえも不完全だと言わなければなりません。自分たちの思惑、身勝手さから自由ではなかったのです。
カルヴァンは神学的に対立する立場にあったミシェル・セルヴェという人物に対して、対話によってではなく火によって向かい、彼を生きながら火刑に処してしまいました。当然、彼は非難を受けました。
ルターはドイツ農民戦争において、当初は反乱側を扇動するかのような発言をしましたが、後に騒ぎが大きくなると農民を鎮圧するために流血も已む無しと、掌を返すように諸侯を支持します。ルターもまた支持を失い、反乱地域ではカトリックが主流となりました。
人間が考えること、人間の業は決して完全ではありません。だから、誰か人間を絶対視するのは極めて危険な行為なのです。私たちプロテスタントは、まず自分を含めた人間を省み、不完全さを理解しておかなければならないのです。それが例え立派な教えであったとしても、人間の言葉や考えは不完全であると覚えておかなければならないのです。しかし、不完全であるからこそ与えられた希望があります。それこそ福音です。人間が不完全であるからこそ、イエスさまは私たちを招いて下さるのです。
完全な教えは、イエスさまの御言葉だけです。完全な業は、イエスさまの御業だけです。完全な方はイエスさまおひとりです。
イエスさまだけが徹底して神さまに従順で、御自身の思惑を全く差し挟むことなく、全く罪のない、全く傷のない小羊として御自身を捧げられたからです。イエスさまこそ、神さまが私たちを取り戻すために遣わされ、捧げられた犠牲の小羊なのです。
この小羊が流した血が私たちを神さまにお仕えする者とします。私たちを礼拝に招き、ともに礼拝を成立させる、礼拝を建てる者とします。神さまの御前に立てるように、私たちの罪を赦して下さるのです。
私たちは自分の血を流す必要はありません。私たちは誰かに血を流すように仕向ける必要はありません。血はイエスさまが流して下さったからです。私たちは何をも引き換えとして差し出さなくても恵みを頂けます。私たちはただ、イエスさまが招いてくださる、暖かな食卓を共に囲み、そこでいただく恵みを感謝して受ければ良いのです。そして、より多くの人と共にこの食卓を囲めるように、人々を招くのです。
もしも私たちが何かを差し出したいと思った時にはどうしましょう。その時には、喜びを差し出せば良いと思います。感謝と賛美と、互いへの愛を差し出せば、それをこそ神さまは喜んでくださるはずです。
私たちは、誰もが温もりを感じられる礼拝を目指します。いつ、誰が来ても福音の喜びを、イエスさまの優しさを分かち合える教会を目指すのです。
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