聖霊降臨節第23主日礼拝説教

2024年10月20日

フィリピの信徒への手紙 3:7-21

「天の市民権」

国籍は、その人の命について誰が責任を負うかを明らかにします。だからこそ、自国民の生命が危機に晒された場合には、どの国も自国民を救助しようと努力するわけです。外国において国民の生命が危機に陥ると、その国はまず外交的な努力によって国民を守ろうとし、それが叶わないとなると実力の行使を検討します。そこまでするのは、用い得る、あらゆる能力によって国民を保護する義務が国にはあるからです。

国には、国民の生命を守る義務があるから、国民は自分の生命が脅かされた場合には国に保護を求めます。パスポートは、その人がどの国の保護を受けているのかを証明する書類です。この書類を提示する者は外国にいたとしても、求めに応じて母国の保護を受けられます。国民を保護する力は福祉であったり警察力であったり、外交力であったり国防力であったりと多様ですが、その背景には必ず法律が存在します。法は国の意志と責任を明文化したものです。

私たち国民は、国の意志と責任を形成する一員として、意志決定の手段として選挙を行います。直接に意志を反映させようと思う者は法を作る者となるために立候補しますし、そうでない者は投票を行います。投票は、国の未来に対して責任を負う国民の権利であり、同時に義務でもあります。国民は自分の属する国、生活の場である国に対して、無関心では居られません。たとえ煩わしいと思ったとしても、関係を完全に断ち切るのは極めて困難だからです。

古代の人々は、世間との関係に煩わしさを覚えた時、これを避けるために荒れ野に入りました。彼らは孤独を求めて人の居ない土地を目指しました。いつしか、「孤独」を意味するモナコス(monachos)が転じたモンク(monk)と呼ばれるようになりました。日本語では修道士と訳されています。彼らは世間にあって持っていた物を捨てて荒れ野に入りましたが、彼らにとって荒れ野は穏やかさを与えるオアシスでした。

人里離れた渓谷などに住んだ修道士たちですが、実は彼らも完全に孤立していたわけではありません。彼らを慕って集まる人々が居たからです。

アントニオスという修道士の名前が歴史に残っています。彼は修道院の創始者として知られていますが、彼に関する記録は初期の修道生活を知る上で重要な意味を持っています。

彼は比較的裕福な家庭に生まれましたが、教会で福音書の朗読を聞いて大きな衝撃を受けました。彼が聞いたのはマタイによる福音書に記された、金持ちの青年の物語でした。

イエスさまは永遠の命を得る方法を訪ねる青年に「持ち物を全て売り、貧しい人々に与えなさい」と諭されましたが、青年はそれを聞いて落胆し、去ってしまいました。イエスさまは「金持ちが天の国に入るのは難しい」と嘆かれます。この箇所を聞いて、自分の生活を変えなければならないと確信したアントニオスは財産を全て売り払い、その代金を貧しい人々に施すと、自分は砂漠へ引きこもりました。

最初の数年間は、年老いた修道士が近くに居たので、彼から修道生活を学びましたが、この期間は困難な日々でした。かつての楽しい生活を懐かしみ、全てを売り払って砂漠に入ったのは間違いではなかったかと後悔するようになりました。それは闘いでした。しかし、数年が過ぎると彼は神の助けを確信し、後悔や誘惑との闘いは以前よりも耐えやすいものとなりました。

そんな彼を探し求めて来る人たちが居ました。ある人は祈りと瞑想の知恵を求めて、ある人は悩みを聞いてもらいたくてアントニオスのもとを訪れました。誰かに見付かるたびに彼は居場所を転々としますが、いつも彼を探し出そうとする人によって見付かってしまいます。

ついに彼は、あまり頻繁に訪ねて来ないという条件を付けた上で、彼を慕う人々が近くで住むことに同意します。その代わり、彼が人々を定期的に訪れて、修道生活や神の愛、瞑想の不思議について語り聞かせました。

修道士たちは、霊において自由に生きるため、神さまとの関係だけを求め、全てを捨てて荒れ野に入りましたが、彼らの存在が世間に生きる人々に神さまとの関係についての知恵を与える働きを持ちました。

修道士から知恵を得た人々は、きっと普段の生活の中で、時に戸惑いながらであったかもしれませんが、神さまとの関係を保って生きたでしょう。そして、世間の中で神さまの恵みとイエスさまの愛を証ししたはずです。

修道士は世俗との関係を捨て、神さまとの関係だけを求めようとしましたが、世俗との間に良い関係を残しました。彼らを訪ねた人々は世俗の中にあって生活しましたが、そうであったからこそ、世の人々に広く証しを立てられました。どこにあっても、神さまを求める人々の間には、何等かの形で交流があったのです。

捕囚の民はバビロニアの地で、不安に満たされて生きていましたが、エレミヤは遠いエルサレムから手紙を送ります。彼らは全てを奪われて連れて来られましたが、どこにあっても家を建て、家族を増やし、町の平安を祈りつつ生き抜きなさいと励まします。そこはかつての敵国であり、周囲の目も厳しいはずですが、かつての敵のために祈りなさいと促します。それがあなた方の平安に繋がるからと。

バビロニアに征服されるまで、ユダヤの民は声を大にして警告するエレミヤの預言に耳を貸しませんでした。この時点でエレミヤは民を見放しても良かったのですが、そうはしませんでした。バビロニアに敗北し、民が連れ去られた後、エレミヤはこの人々を指差して笑っても良かったのですが、そうはしませんでした。遠く離れた土地からであっても、繋がりを保ち、慰め、励まそうとします。

エレミヤにとって、彼らとの過去の関係などどうでも良かったのでしょう。また、彼らがどこに住むかも問題ではありませんでした。彼らが神の民であるという一点だけが重要で、今や彼らは心から神を求めています。そんな民に、神さまの励ましの御言葉を伝えたいと願い、手紙を差し出したのです。

私たちはどこに居るでしょうか。「私たちの本国は天にある」と記されている通り、私たちの国籍は根本的なところでは天にありますが、生活の場はこの世間です。私たちは隠遁生活を送っているわけではありません。この生活の場において、世の人々との間に良い関係を結び、普段の生活を通して神さまの恵みとイエスさまの愛を証しします。そして、週に一度、静かな時を、神さまとの繋がりを求めて、この御堂に集まるのです。

私たちには何ものにも優る宝があります。イエスさまとの繋がり、キリストによって結ばれる神さまとの関係こそが私たちの宝であって、これがあるから私たちはいつでも豊かで、喜びに満たされています。世間の人々から見たら惨めにしか見えないような姿を晒す時もあるかもしれません。しかし、そのような時であっても、私たちがどこに居たとしても、私たちには共に歩んで下さるイエスさまが居られます。イエスさまこそが私たちの宝です。

イエスさまはあらゆる境い目を越え、良い知らせを伝えられました。私たちにも同じことができるはずです。その最も身近な手段こそ、信仰告白だと私は思います。使徒信条による告白だけではありません。「私は神さまを信じます。私はイエスさまを信じる者です。」と、言葉によって告白する時、あるいは言葉以外の手段によって、分け隔ての無い愛に基づく行いによって信仰を現わす時、私たちは投票しているのです。神さまによって愛される者であると表明し、神さまを愛する決意を投票しているのです。イエスさまによって赦された者であると表明し、イエスさまを愛する決意を投票しているのです。愛される者として愛し、信じる決意を投票しているのです。

私たちの国籍は天にあります。神の民として、日々の生活の中で愛されるという恵みを享受し、神さまを愛し、人を愛するという責任を果たすのです。

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