2024年10月27日
箴言 8:1,22-31
「雀の一羽さえ」
知恵とは何でしょうか。
人間とその他の動物とを分ける境目はどこにあるのでしょうか。この分け方について様々な意見があります。ある人は「道具を使うか否かである。」と言い、別のある人は「人間は火を使う。」と言います。「言葉を使うかどうか」に注目する人も居ますし、少し哲学的な人は「人間は自分が死ぬことを知っている。」と答えます。
これらの分け方を極めて大雑把に捉え直しますと「人間には道具や火、言葉、抽象的な思考などを使う知恵や知識がある。」と言い換えることも出来ます。つまり「人間のみが知恵を持ち、これを使いこなせるのだ」と言いたいわけです。
しかし、現代の科学はこの世界には人間の知恵や知識をはるかに超えた、大自然の知恵・知識に満たされているということを明らかにしつつあります。新たな発見をするたびに、人智を超えた知恵が世界を支配している、人間のみが知恵を持つ存在ではないと、私たちは改めて知るのです。
この流れは、実は古代への回帰なのではないかと感じています。古代の人々は神の知恵が世界を支配していると考えていました。この世界に相対する時、古代の人々は自分自身の小ささを、畏れとともに知っていたのです。近代を迎えたあたりから、人間の能力が飛躍的に増して行きました。人間の存在がそれまでに比べてどんどん大きくなっていき、同時に傲慢にもなりました。そして、ついには「知恵は人間のみが有する」というような考え方をするようになったのではないでしょうか。
今、時代は新たな転換点を迎えつつあります。人間はより広い視野を手に入れたことで、自分自身の小ささを改めて再発見しようとしているのです。先ほど読まれた箴言は、そういう時代に生きる私たちに、知恵とは何なのかについて考えさせます。
この箇所では知恵自らが、自分がどのようなものであるのか、創造の物語を紐解いて語っています。
「初めに神は天と地を創造された。地は混沌として、闇が深淵の表にあり、神の霊が水の表を動いていた。」
創造の御業が始まった瞬間から、世界は道を歩み始めました。それまでは混沌であった世界は、一定の秩序を持つ道を歩み始めました。
創造の御業について語るに際して箴言を記した記者は、特に水に注目して語っています。古代ユダヤの人々は、「深淵」という言葉にいくつかのイメージを投影していました。深い水の底には光が届きません。何があるのか分かりません。また、人は水の中では息が出来ないことから、深い淵、水は死や滅びを意味していました。
ノアの時代に、罪に陥った人々を滅ぼしたのは天からの水でした。エジプトの地を脱出したイスラエルの民に追い迫る戦車の群れを滅ぼしたのは、海の水でした。
神さまは創造の御業の始めに光を創られましたが、その次になさったのは水を分けることでした。神さまは光を創られた後には死と命とを分けられたのです。
しかし、知恵は「まだ深淵もないとき、私は生み出されていた。」と述べます。「地上の最初の塵も」、つまり地上に生き物が生まれるよりも前から知恵は存在していました。そして知恵は、「わたしはそこにいた」と言います。知恵は命が、私たちが生まれる前から存在し、また私たちが生まれる瞬間に立ち会っていたのです。
ではこの時、創造の御業に立ち会っていた知恵は何をしていたのでしょう。
「御もとにあって、わたしは巧みな者となり
日々、主を楽しませる者となって
絶えず主の御前で楽を奏し
主の造られたこの地上の人々と共に楽を奏し
人の子らと共に楽しむ。」
知恵は私たちが命を与えられた瞬間に、神さまに賛美の歌を歌い、私たちとともに賛美の歌を歌い、神さまを喜ばせ、私たちと共に喜んでおられるのです。
知恵は、子どもが親の前で笑顔になって遊ぶように、神さまの御前で笑顔になって神さまを喜ばせ、また、神さまが命をお与え下さった私たちと共に笑顔になって喜ばれるのです。
知恵は、神さまと親しいお方であるのと同様に、私たちにも親しいお方なのです。そして、神さまと私たちを結び合わせてくださるのです。
その知恵が私たちに、あなた方は愛されているのだと、あなた方も愛しなさいと教えるのです。
知恵とは何でしょうか。
知恵に満ちた方が、道の守り方を教えてくださいました。イエスさまは、「人々を恐れてはならない」と仰います。これは、来るべき迫害の時代にあってもキリストを告白せよ、キリスト者を苦しめる者を前にしてもキリストを告白せよという命令でもあり、励ましでもあります。
ここでは、肉体の生命と魂を分けて論じておられます。私たちキリスト者は肉体の命に優る魂を与えられているのだから、その魂をこそ大切にすべきだと励ましてくださいます。私は、この魂とは永遠の命ではないかと考えています。
キリスト者は信仰を告白したのちに授けられる洗礼によって、水をくぐります。水は死の象徴ですが、この死とは罪に対する死であり、愛を拒否する生き方に対する死です。水から引き上げられる時、私たちは新たな命を与えられます。それはイエスさまと共に歩む命、永遠の命であり、揺るがぬ希望、愛への希望でもあります。この命をこそ大切にせよとイエスさまは諭されます。
この命を受けた者を神さまは絶えず見守ってくださっています。全ての命が神さまの御支配の内にあるからです。神さまは一羽の雀の命にさえ注意を払っておられます。
売られている雀は、一羽では値段が付きません。二羽でやっと1アサリオンです。アサリオンは当時の貨幣の最小単位です。人間の目には、それほどに小さな価値しか持っていないように思える雀です。雀は小さく、人間の声に比べると小さな鳴き声しか出せません。そんな小さな声にも神さまが注意を払って下さるとするならば、私たちが神さまを呼ぶ声を聞かれないはずがありません。
祈りは、それ自体が信仰告白ともなります。以前、町の喫茶店で隣の席に座った人が食前の祈りを捧げていました。その人は1人でしたので極々小さな声で感謝の祈りを捧げていましたが、アーメンという言葉は彼女がキリスト者であると証明していました。
私たちが神さまを呼び求めて祈る時、私たちは自分の信仰を明らかにしています。私たちは祈りを恥じるべきではありません。祈りを怠るべきではありません。声にならないような祈りでも、小さな声でしかなかったとしても、祈りこそ神さまと私たちを繋ぐ絆であり、祈りこそ私たちに命に至る道を教える知恵だからです。
「子らよ、わたしに聞き従え。わたしの道を守る者は、いかに幸いなことか。」
道を求める者は祈るのです。祈る私たちに神さまは答えてくださいます。道を示して下さるように求める祈りから私たちの歩みは始まります。
祈りによって日々を営みたいと願います。
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