2024年10月6日
フィリピの信徒への手紙 1:12-30
「板挟みのパウロ」
日常的に使用する物の一つに石鹸があります。石鹸はアルカリ性の品物です。今では脂肪酸やグリセリンなどの油脂と苛性ソーダなどを加工して作られていますが、元々は動物の脂肪や植物の油に灰を混ぜて作られていました。多分、古代の人は偶然に石鹸を発見したのでしょうが、アルカリの持つ汚れを落とす働きは経験的に知っていたものと思われます。
灰は汚れを取り去るために用いられて来ました。聖書においては、嘆く者や悔い改める者は灰を被りますが、これは罪の汚れと、その結果としての苦難を清めようとしての行為であっただろうと私は考えています。
苦しみが襲い掛かる時、なぜこんな思いをしなければならないのかと問うた経験は、多くの人が持っていると思います。原因が明確である場合もありますが、考えても考えても結論が出せない時もあります。ヨブはまさにそのような状況に置かれていました。
ヨブは篤い信仰を持った人物で、神さまを畏れ敬い、慎重に悪を遠ざけていました。彼には7人の息子と3人の娘が居り、多くの家畜を持ち、使用人も何人も雇っていました。彼が住む地域の中では、彼は一番豊かな人物でした。彼の生活の様子は神さまも良く御存知でした。
ある時、神さまはサタンと話をなさいます。その会話の中で神さまはヨブの正しさを誉められますが、これに対してサタンはヨブを試みてはどうかと提案します。ヨブから財産も家族も健康も奪ってしまえば、たちまち罪に堕ちてしまうに違いないと言うのです。神さまはサタンに、ヨブを試す許可を与えます。
ヨブはたちまちのうちに全てを喪ってしまいました。息子も娘も失い、家畜も奪われてしまいました。それでもなお、ヨブは神さまに恨み言を言いません。
3人の友人が彼を見舞いました。するとヨブは苦しみを訴えます。友人らはヨブに何らかの落ち度、罪があったために、その報いを受けているのではないかと考え、神さまに罪の赦しを請うように勧めます。しかし、ヨブには覚えが無いので、友人らの勧めを拒否します。ヨブにとっては理由が分からないことこそが苦しみだったのではないかと思います。彼は正しい人でしたので、理由さえ分かれば直ちに悔い改めたでしょう。理由が分からないままでは罪の告白さえできない、それが苦しかったのでしょう。
ヨブと3人の友人らは長い長い議論をします。その末に神さまが直接ヨブに語り掛けられました。神さまはヨブを諭されます。人間の理解と知識をはるかに超えた驚くべき御業の数々を並べ、御力の限りない大きさを明らかに示された時、ヨブは納得し、平安に満たされます。
彼は気付かないうちに罪に陥ってしまっていました。彼は図らずも自分の知恵で主を計ろうとしたのでした。それは、3人の友人が犯していたのと同じ過ちでした。
人は神さまの御心を知り得ないのですから、神さまが何を罪とされるかも結局は分からないのです。神さまが私たちに苦しみを備えられる理由は、根本的なところでは分からないのです。無理に理由付けをしようとしても、それはかえって神さまの御心を私たちから隠してしまうのです。
私たちはまず神さまに問い、また神さまから問われ、神さまとの直接の関係に入らなければならないのです。ヨブは答えました。「あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。」
この答えは極めて重要であると考えます。耳にした言葉はヨブに、知性による理解を与えたでしょう。それだけでは不足だったのです。目で見る、つまりヨブには体感が欠けていたのです。
ヨブは塵と灰の上で悔い改めました。塵は人間が何から創り出され、何に還るかを示しています。つまり、人間が限りある存在であると思い起こさせています。灰もまた肉体の生命の有限性を示していますが、それに加え、汚れが取り去られ、罪の赦しが与えられることを思い起こさせます。ヨブは苦しみの末に神さまと直接向き合い、自分の小ささを知り、自分が生まれながらに罪深い者であると知り、主の御前に畏まったのです。
パウロも、罪を犯したわけでもないのに苦しみを味わっていました。牢獄に監禁されていたのです。しかし彼は投獄の苦しみを否定的には捉えていません。常識で考えるならば、自由が失われているわけですから彼自身にとっては不利益ですし、また行きたい所に行き、そこで話ができないのでは、福音宣教にとっても不利益であると言えます。、それなのに、パウロは今の状況を「福音の前進に役立った」と言います。ここでは兵営と訳されていますが、パウロが投獄されている理由が、今で言うところの警察署など、役所全体に知られる機会を得たと考えているのです。
また、パウロの投獄を切っ掛けに、宣教に励むようになった人たちが居ました。ある人々は、自分たちの信仰は決して世を乱したりしない、それどころかパウロの語る福音は多くの人々にとって良い知らせであると証明し、それによってパウロの無実を訴え、牢獄から救い出そうとしたのでしょう。
これとは別の動機によって宣教に精を出す人々も居ました。彼らは教会の中で自分たちの影響力を拡大しようという利己心から宣教をしていました。彼らは教会の中にシンパを増やすため、パウロが投獄されている隙に教会員を増やそうとしたのです。宣教をパウロに対する攻撃の手段と考えていたのです。
ただ、パウロはそれについて全く痛みを覚えていませんでした。宣教についての考え方と視点が、パウロと彼らでは全く違っていたからです。
パウロの関心は、キリストがより多くの人々に知られ、人々が信仰を得るかどうかにあって、教会の中に占める自分の立場などには全く関心が無かったのです。だからこそ、敵対者らが宣教に励む動機が何であれ、キリストと福音が正しく伝えられる限りは、それを喜んだのです。
ただし、パウロが意に介さないのは宣教の動機であって、方法や内容については、あくまでも正しい方法で、歪めることなく伝えられなければならないと考えていました。それはガラテヤ書の記述からもうかがえます。パウロは逸脱したキリスト像の吹聴を決して許そうとはしませんでした。
それが敵対者らによるものであったにせよ、パウロは宣教の前進を喜びます。より多くの人が救われるように願っています。それは福音の前進が自らの救いにも繋がると信じていたからです。
この場合の救いとは、例えば牢獄からの解放のように、目の前の苦しみの解決を意味しているわけではありません。それは魂の救済であり、終末論的な救い、つまり全ての人が愛し合い、共に食卓を囲める未来の接近を意味しています。
パウロは、この未来の接近は使徒たちの力のみによってなされるとは考えていませんでした。信じる全ての人の祈りと、何よりもキリストの霊の助けに支えられて初めて実現すると考えていたのです。パウロは信徒を一方的に教えられる者であるとは考えず、共に宣教のために働く者であると考えています。その捉え方は神さまの視点に限りなく近いのではないでしょうか。
神さまは、全ての人を宣教の担い手、福音の使者として遣わされます。私たち一人ひとりが自分の心を震わせ、その力が私たちの周囲に居る人々に伝わって福音の喜びが伝わる。それを神さまは願っておいでなのだと私は信じます。私たちの心を震わせるために、神さまは時に私たちに苦しみをお与えになります。私たちにとっては迷惑極まりない仕打ちなのですが、しかし、それが私たちには計り知れない神さまの御心なのです。
牧師として神さまと人とにお仕えしていると、命の意味について考えさせられる機会がしばしば与えられます。時々質問されるのです。「なぜ自分で命を捨ててはいけないのか」
かつては、自死は赦されないタブーであると考えられていましたが、私は赦されないとまでは考えていません。大体において人は、苦しくて、どうしても辛くて、他に逃げ道が無いから死を選ぶのです。追い込まれた結果の選択なのです。そこまで苦しんだ人に更なる重荷を神さまは負わせられるでしょうか。そうではないと私は信じたい。その一方で、やはりそれは神さまを悲しませてしまうという事実を理解しておかなければならないとも言わなければなりません。それは「神さまは救ってくださらない。無力だ。」と呟くのに等しい行いだからです。
私たちは泣いて良いのです。情けなくうろたえても良いのです。ただ、逃れの道を神さまに求めるのです。救いは神さまに求めるのです。苦しみの理由は分からないかもしれません。苦しむ意味が分からないかもしれません。答えを見付け出す必要はありません。私たちは神さまに内心を赤裸々に訴え、神さまの御声を望み続けるのです。一人ではなく、二人で、二人よりは三人で、共に祈り、その人の心の震えを感じ取り、自分の震えとして捉える時、きっと聖霊が働きます。言葉は出ないかもしれない。でもあなたの温もりはきっと伝わります。あなたを通して神さまの温もりがきっと伝わります。
今与えられている神さまの温もりを大切にし、人々にも伝えたいと願います。
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