降誕前節第7主日礼拝説教

2024年11月10日

創世記 13:1-18

「ロトとは違う道を」

ユダヤ民族の父として、後にアブラハムと呼ばれるアブラムは今、カナンの手前にあるネゲブに居ます。

実は既に一度、神さまが約束してくださったカナンに入り、そこで祝福と土地取得の約束を頂いていたのですが、飢饉のためにエジプトに逃れていました。ファラオから多くの家畜を与えられました。これは、妻であるサライを妹であると偽ってファラオに差し出したために得た好意によるものでしたが、人の妻を奪った形になったファラオは神さまから災いを下されてしまいます。そのためにファラオはアブラムを詰り、追放してしまいました。

アブラムは妻と一族を伴い、全財産を持ってカナンを目指します。ここで改めて、ロトが一緒であったと記されています。ロトはアブラムの甥にあたる人物ですが、ここから先の旅において重要な役割を与えられているために、今日の箇所ではロトの選択が取り上げられています。

エジプトから追放されてはいますが、ファラオはアブラムの財産を取り上げず、そのままにしました。そのため、多くの財産を持っての移動となりました。当時の財産は家財道具にせよ家畜にせよ、あるいは通貨にせよ物ですので、移動する時には何らかの運搬手段を用いて運ばなければなりません。日本語では「非常に多く」と訳されていますが、原語では「家畜、銀、金で非常に重かった」という表現がされています。家畜を引き連れるのも、その他の財産を運ぶのも大仕事だったでしょう。

アブラムはべテルとアイの間で礼拝を捧げます。ここはカナンの背骨のようにそびえる山脈の中腹に位置しており、東にヨルダン川沿岸地域を、西に海まで続く平野を見渡す場所にあります。

この時、アブラムの一族には問題が生じていました。財産である家畜が増えすぎて、みんなが一つ所に集まって住むには土地が足りなくなってしまったのです。家畜には牧草を食べさせなければなりません。また水も与えなければいけません。当時はネゲブにしてもカナンにしても、今では想像できないほどに緑が豊かであったらしいのですが、それでも一緒に住んでいたのでは増えた家畜を支えられなくなってしまったのです。

この付近に住んでいたのはアブラムたちばかりではありませんでした。土着の民であるカナン人も住んでいればペリジ人も住んでいました。このペリジ人の名前は12章には出て来ませんから、飢饉が切っ掛けとなって別の土地から移って来た可能性があります。牧草や水という、限られた資源を巡って、一族の間でさえ争いが生じてしまいました。

そこでアブラムはロトに、群れを二つに分け、それぞれに住みやすい所を探し、別れて住もうと提案します。争って暮らすよりは別れた方が互いに平和で居られるとの判断です。

アブラムはまずロトに選択権を与えます。ロトはヨルダンの低地を吟味しました。この土地の豊かさが、エデンやエジプトの豊かさになぞらえて記録されています。エデンにはピションやギホン、ティグリスやユーフラテの四つの川が流れており、またエジプトにはナイルが流れているために、大変豊かです。ヨルダン川の岸辺は、エデンやエジプトと並ぶほどに豊かでした。

ロトは、この豊かな土地を選びました。豊かさを基準に住む場所を選びました。ロトはアブラムと別れ、山を下り、ヨルダン川の流域に向かって歩き始めました。アブラムは、どのような思いで甥の背中を見送ったでしょう。ロトはソドムの近くに拠点を定めましたが、13節では、近い将来に起こることを暗示するかのように、ソドムに住む人々の性質が記されています。

主はアブラムに「目を上げなさい」と仰います。アブラムは内心では残念だったのではないでしょうか。確かに目に映る豊かさにおいてヨルダンの低地はカナンよりも優っていますが、カナンは神さまが約束してくださった土地であり、祝福してくださった土地です。ロトの選択は、実は神さまの祝福よりも豊かさの方に重きを置くという選択でもありましたが、彼はそれに気付いているのでしょうか。続く神さまの約束の言葉には、甥の選択を残念に思うアブラムへの慰めが含まれているように思えます。神さまも残念だったのでしょう。

目を福音書に転じてみましょう。洗礼者ヨハネの警告が記されています。

ファリサイ派やサドカイ派の人々が洗礼を受けようとヨハネのもとを訪れます。これらの人々は敵役として認識されることが多いと思いますが、この時は「大勢」と表現されるほどの人々がヨハネから洗礼を受けようとしています。彼らは自分たちの罪深さに気付いていたのでしょう。

ヨハネは彼らに厳しい言葉をもって臨みますが、これは拒絶の言葉ではありません。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。」とは、確かに強烈な批判であり非難でもありますが、拒絶ではありません。その証拠にヨハネは「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けている」とも述べています。ヨハネは、それがファリサイ派の人であってもサドカイ派の人であっても、求める人には洗礼を授けていたのです。そして、悔い改めを勧めていました。

ヨハネが「悔い改めにふさわしい実を結べ。」と言う時、それはいわゆる善行を指していると私は考えません。他の福音書、マタイにおいてもマルコにおいても、またヨハネにおいても具体的な行動を求める言葉はありません。洗礼者ヨハネが求めたのは選択です。その時が来たら正しい選択をせよと勧めているのです。ルカにおいてはマルコやマタイに記されている勧めに加えて貧しい人への施しや搾取の禁止が記されていますが、これとてヨハネの意図としては、目に見えやすい豊かさである富に惑わされず、正しい選択、正しい決断をせよとの勧めです。

「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」

これは罪びとを断罪する言葉ではありません。ヨハネは自分の授けている洗礼を悔い改めに導くための洗礼であると明言しています。ヨハネの言葉は、迫るかのように正しい選択を勧める、力強い励ましです。

ヨハネは自分を、より偉大な方の到来を告げる先駆けに過ぎないと考えています。では、彼の後に来る方は、どのような方なのでしょうか。

この方が授けて下さる洗礼を12節で説明しています。この方は麦を脱穀するように、洗礼によって全ての人から罪を引き剝がし、私たちを天の御倉、天の御国、神さまの御支配なさる永遠の平安の内に招き入れてくださるのです。消えない火で焼かれるのは罪びとではなく、人の罪、私たちの罪そのものです。この方が授けてくださる洗礼こそ、御救いへと至る決定的な決断なのです。

私たちは、どこかで決断をしなければいけません。それは福音を求め続けると言う決断であり、御救いを信じるという決断であり、その決断は洗礼を通して明らかにされます。

ロトは自分の選択の意味に気付いていません。後にソドムは滅ぼされ、その辺りは今では荒れ野となっています。しかし、一度選択を間違ったからと言って神さまはロトを見限らず、後には救い出されます。神さまは私たちを必ず救ってくださいます。イエスさまが私たちの手を取って導いてくださいます。私たちは主の十字架を通って永遠の豊かさ、永遠の平安へと至るのです。

自分が何を望んでいるのかに気付いた時こそが、私たちに与えられた決断の時なのです。

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