降誕前節第6主日礼拝説教

2024年11月17日

申命記 18:15-22

「御言葉は実現する」

何かにタイトルや名前を付けようとする時、多くの場合その物を分かりやすく言い表すような言葉を選ぶでしょう。例えば絵のタイトルでも詩や小説のタイトルでも、何が主題なのかを示すようなタイトルを付けることが一般的なのではないでしょうか。

では、今日読まれました書物の名前はどうでしょう。「申命記」という言葉から、皆さんは何を読み取られますか。例えば創世記や出エジプト記などは分かりやすいタイトルです。「あぁ、世が創られていく様子を記してあるのだろう。」ですとか、「エジプトから出る物語だな。」と予想がつきます。民数記は少しひねりが利いています。最初の辺りで人口調査をしていることから、この書物の冒頭の部分をそのままタイトルにしたのだろうと分かるわけです。しかし、申命記とは。命を申す…命が申す…このタイトルが意味することはなんでしょう。

原典であるヘブル語聖書では、それぞれの書物は冒頭にある単語から名前を付けられています。申命記の冒頭は「これらはモーセが語った諸々の“言葉”である」“אֵלֶּה הַדְּבָרִים”(エッレ・ハーデヴァーリーム)から始まっていますので、「諸々の言葉」というデヴァーリームという名で呼ばれています。興味深いことに、この単語、単数形ではダーヴァールですが、これは「出来事」という意味も持っています。

それが何故日本語の聖書では「申命記」となるのかと言いますと、「申す」という文字には再びという意味があるのだそうです。つまり「繰り返し命ずる」という意味の名前です。これは、かつてホレブの山で語られた掟が再び語られたということから付けられた名前です。

少し話が脱線しますが、この名前に使われているそれぞれの文字の意味を源にまでたどりますと、「申す」という字は稲妻を象った象形文字で、神が地上にその力を伸ばす様子を表しているようです。また、その神に願い事などをすることから「言う・申し上げる」という意味が生じたとされています。

また「命」という字は人々が集まって跪き、神託を、つまり神の言葉を受ける様子を表しているのだそうです。この二つの文字が重なると、どうしても礼拝を連想せずにはおれません。個人的には「これは礼拝の書ではないか」と考えています。

申命記において神は十戒を始めとした掟を民に授け、民はそれを謹んで受けました。そして民の代表であるモーセはネボ山の頂で民の幸いを神に祈り、民が祝福されることを願いました。そのイメージを持って「申命記」というタイトルを眺めますと、「礼拝の書」という解釈は必ずしも的を外してはいないのではないかと思います。

神はモーセを通して民に語り掛けられました。

「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。」

神の言葉を預かる者、神の言葉を取り次ぐ者は会衆の中から立てられると神さまは言われます。そもそも、神の言葉の取り次ぎ、つまり説教を語る者と説教を聞く者とは根本のところで同じ立場であると言われるのです。

それがいつの間にか、説教者はある種の権威になってしまいました。それを目に見える形で表しているのが、あの黒いガウンです。あれは学位を取った者が着る服です。つまりあれを着るということは、「私は神学を学び、学位を取った者として説教者たる資格を持っている」と主張するのと同じです。それはつまり神の御言葉を受ける者と語る者との区別であって、神の御言葉の本質から大きく外れた行為であると考えますので、私はあの黒いガウンは絶対に着ません。神の御言葉とは、私たち皆が等しく親しんで良いものだからであり、誰もが神さまにお仕えする者だからです。

しかしイスラエルの民は神の御言葉に触れることを恐れました。ホレブの山で神さまが彼らに臨まれた時、神さまは炎と煙を伴い、山を震わせて御姿を現され、轟く雷鳴によって語り掛けられたからです。確かにこれでは恐ろしくてたまりません。

そこで神さまは「あなたのためにわたしの言葉を取り次ぐ者、預言者を立てる」と言われました。また同時に、預言者の言葉を聞くに際して「その人の言葉を私の言葉であると思って聞きなさい」と、会衆たる人々に聞き手としての責任が与えられました。

語り手に与えられた責任はさらに重いものです。語り手はあくまでも神さまの御心を語らなければいけません。自分の欲によって、自分が聞かせたいことを語ってはならないのです。この事は説教者にとって常に誘惑として聖書を読んでいる視界の隅にちらついています。自分が言いたいことを言う方が楽だからです。自分に都合の良いことを言って自分を正当化できますし、言葉を準備するにしても楽です。研究の必要も無ければ自己批判をする必要も無いからです。

新共同訳聖書では、預言者が自分の思いによって語ることを「勝手に」と訳していますが、他の訳を見ますと「傲慢にも」あるいは「不遜にも」と訳されています。傲慢になった時、説教者は自分の言いたいことを説教壇で語り始めるのです。

誰でもそうですが、人は自分が特別な者であると勘違いをした時に傲慢になります。人から傲慢さを取り去るのは困難ですが、逆に人を傲慢にさせることは簡単です。寄ってたかってその人を特別扱いすれば良いのです。全く批判せず、「あなたは正しい、あなたは偉大な働きをなしている。」と常に耳に吹き込めば、いつか傲慢な人が出来上がります。神さまは説教者が傲慢になった時、その責任を、その人の命によって問うとまでおっしゃって、説教者が御言葉を私することを固く戒められました。

説教者となるための訓練を私は神学校で受けてきました。その一環として、説教演習という訓練があります。神学校の礼拝で実際に説教をし、礼拝後にその説教をみんなで吟味する講義です。礼拝の後、その神学生は教授と同級生から1時間半の講義の間中、散々に批判されます。もうボッコボコにやられます。ヘロヘロになって涙目になったところで、教授が良い点を述べて講義を閉めてくれるので、神学生は何とか潰れずに居られるのですが、それはもう徹底的に批判されます。

実習教会でも同じです。説教をした日は、私は必ず指導牧師と夕食を一緒に食べました。「夕食を一緒に」と言いますと「暖かな交わりがあったのだろう」と想像されるかもしれませんが、夕食を食べなければならないくらいの長時間にわたって説教を批判され、指導して頂いたのです。学生寮に帰るのが10時、11時になるのは当たり前でした。

教授も指導牧師も、それほどの熱意と労力をもって指導に当たってくれたのです。それが、卒業して教師という立場になると、それまで鞭と杖によって導いてくれていた人たちは当然居ないのです。そんな状態でおだてられれば、「あぁ、これで良いんだ」と思い込んでしまいます。だんだんと傲慢になります。

傲慢さへの恐れを持ちながら、他の方が語るメッセージを聞きますと、特に信徒のメッセージを聞きますと、「誰が語るか」ではなく、「何を語るか」が大事なのだと気付かされます。語られたその言葉が真実神さまから出たのかどうかを問う姿勢が語り手にも聞き手にも求められるのです。説教者と聴衆の間には緊張が必要なのです。

では、どのようにすればその説教が神さまの御言葉を取り次いでいるか否かが分かるでしょうか。ここでは

「その預言者が主の御名によって語っても、そのことが起こらず、実現しなければ、それは主が語られたものではない。」
と言われています。

「そのことが起こらず、実現しなければ。」という言葉だけを見ますと、これは未来を予め言い当てる方の予言者のことを言っているように思えます。いわゆるプロフェット、つまり神の言葉を預かる方の預言者の働きの一つに、「未来を提示して民を神の御心へと導く」ということも含まれていましたから、「そのことが起こらず、実現しなければ。」というこの表現は字義通りの解釈で正しいのですが、今の教会の業に合うように少し噛み砕いて言うならば、「その言葉に実があって、聞く者の心に力あるものとして現れなければ」と言って良いでしょう。もしもそれが、聞いていて空しい言葉だったならば、それはその人が勝手に語っているだけだから、神さまの言葉として恐れる必要は無いと言うのです。説教者としてはとても恐ろしいことです。

誰かに「あなたの言っていることには実が無い。説得力が無い。何を言っているのか分からない。」などと言われてしまったならば、と想像するだけでも震えが来ます。

イザヤやエレミヤという預言者たちは、大変厳しいことも語りました。そのために彼らは逆風の中で預言することとなりましたが、彼らの言葉は成就しました。それに対して偽預言者たちは、ぬくぬくとした中で、自らの地位の安泰を自らの言葉で確かめ、気休めを自ら語り、偽りの安心を得るために預言をしていました。しかし、彼らの言葉は成就しませんでした。実が無かったのです。

神さまの言葉を取り次ぐに際して、最も大切なことは、そこに神さまの御心があるかどうかです。立場や「学」はそれに付随するものに過ぎません。神さまの御心という実のある言葉を発することができるか否か、全てはそこに帰結します。

神さまの御言葉は道具ではありません。人間が無造作につかんで良いものではありません。都合の良い様に、便利に使って良いものではありません。神さまの御言葉は人間の道具ではありません。

だからといって、無暗に恐れる必要もありません。それは御言葉を遠ざけることになってしまうからです。誰かが何かを語ろうとする時、そこに「神さまの御心」という実があったならば、その言葉は聞く人の心で姿を現し、その人を活かします。「誰が語るか」が問題なのではなく、何が語られるか、その言葉の源がどこにあるのかが大切なのです。

その言葉に実があるならば、その言葉に愛があるならば、人が集まる所で聖書が読まれ、実のある言葉が、愛のある言葉が、神さまの御心が語られるならば、その集まりは礼拝なのです。

モーセたちは四十年にわたって荒れ野を旅しました。この旅は、仰ぎ見るべき方が誰であるかを見極めるための旅、語り掛けて下さる方がどなたであるかを見極める旅であったと言えるでしょう。最後に、モーセは神の民を祝福し、カナンへと送り出します。この旅自体が礼拝であったと言えるでしょう。私たちの生活は、それ自体が礼拝なのです。礼拝堂に居ても、それぞれのおうちに居ても、私たちは心を合わせて神さまの御心を求めて祈り、御言葉を分かち合い、祝福を受けるのです。

祈りと御言葉は、私たちの生活から切り離せません。ほんの5分、3分でも良いので、一日の中に祈る時間と聖書を開く時間を作りましょう。

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