降誕前節第5主日礼拝説教

2024年11月24日

ミカ書 2:12-13

「僕である王」

時折、幼児園の子どもたちの散歩について行くことがあります。道中の様子を見ておりますと、先生たちが子どもを安全に目的地へと導くために、とても気を使っていると気付かされます。

子どもの人数は二人や三人ではありません。家庭で子どもを連れて歩く時であれば、今時は子どもが5人も6人も居るという御家庭もそうそうはありませんから、大人が子どもの手を曳けば概ね安全に歩けるわけですが、10人、15人という子どもたちを連れての散歩ですので列を組んでの移動となります。

そうなりますと、引率する大人は役割分担を決めなければ、子どもに目が行き届きません。歩くのは公道ですから、車が来ないかにも注意をしなければいけません。そこで、ある先生は先頭に立ち、みんなの行先を示すと同時に、前を向いて車に注意します。別の先生は列の最後を歩き、列の全体を見渡し、また後ろから近付く車に注意します。真ん中辺りを歩く先生は、子どもが何かに気を取られて道の真ん中に出そうになった時には連れ戻し、また交差点を渡る時には旗を持って道の真ん中に立ち、子どもが横断していることを車に知らせます。また、見通しの悪いカーブなどでは列を追い越して要所に立ち、危険が無いかを確かめたりします。このようにして、チームで子どもたちの安全を確保しつつ、目的地に向かいます。

群れを安全に目的地へと導くためには、これらの働きを揃える必要があります。それは羊の群れでも同じです。群れをリードする羊飼いと、フォローする羊飼いの二つの役割が必要です。

聖書にはしばしば羊飼いが登場します。それは神さま御自身のイメージでもあり、また牧者や牧師のイメージでもあります。このイメージを人々に提示した最初期の預言者が、ミカです。

ミカは紀元前725年頃から活動を始めた預言者です。彼が預言を始める少し前の時代には、北イスラエル王国も南ユダ王国も揃って豊かでした。経済的にも繁栄していましたし、領土的にもダビデやソロモンの時代の大きさを取り戻していました。

一方で、社会内部では腐敗や不正義が進み、貧富の格差が目立つようになっていました。ミカ書には、都会に住む豊かな人々が地方の農民から土地を取り上げる様子が記録されています。

ミカやエレミヤといった預言者たちは、欲望に囚われ、豊かさを追いかける人々の過ちを指摘し、本来進むべき道を指差しますが、人々はこの声を受け容れませんでした。本来であれば、王たちこそが預言者たちの声に敏感であるべきでしたが、耳障りだとばかりに遠ざけてしまいました。

車の接近に気付いた先生は声を上げます。「車が来たよー」。これを聞いた他の先生たちもこれを復唱し、さらに「道の端に寄って止まります」と、子どもたちに指示を出します。また、子どもたちを覆うように両手を広げ、子どもが列から離れて道に出てしまわないようにします。これこそが、王たちの本来の役割でしたが、当時の王たちはそのようにはできませんでした。「大丈夫だよ、行こう行こう」とばかりに富を追い求め続け、その結果、アッシリア帝国による侵略を受けて、北イスラエル王国は紀元前722年に首都であるサマリアを喪います。

ミカは主なる神さまを、リードする羊飼いであり、フォローする羊飼いでもある良い羊飼いのイメージで語りました。これこそが、職務に忠実な良い王のイメージです。イエスさまも、このイメージで人々に教えを与えられました。群れからはぐれてしまった一頭の羊を、どこまでも探し求める羊飼いの例えなどは、フォローする羊飼いの典型的な姿でしょう。

今日の福音書には、終末に関わる物語が三つ収められています。そこでは、定められた時に誰かがやって来るというモチーフで終末の到来が語られています。花婿の到着が遅れ、夜中まで待たされるお話では、油を用意しておいた乙女と、油を持たなかった乙女を比較して教えられました。旅に出ていた主人が帰って来るお話では、主人から預かったタラントンを生かして増やさなければ、主人を失望させてしまうという教訓を語られました。今日読まれた王のお話では、王が人々を集め、彼らを選り分けるという物語です。

この王は、羊飼いが羊と山羊を分けるように、人々を分け、一方を救いへ、もう片方を滅びへと定めます。選ぶ基準は、その人が最も小さい者の一人にどのように接したかという点でした。救いを告げられた人々は喜び、滅びを告げられた人々は嘆き悲しみます。

ここで注目したいのは、それぞれの人たちの意識です。彼らが自分の行いをどのように評価しているのかが前面に出されています。救いを宣言された人々は、周囲から取るに足りないものとされた人々にも親切で、しかも自分でも忘れてしまうほどに無意識のうちに、当たり前のこととして食べ物や水を与えました。滅びを宣告された人々は逆です。彼らは人を選んで親切をしていたようです。「飢えていた人に食べさせ、渇いていた人に飲ませたはずです。裸であったり、病気であったり、牢に居られた時にもお仕えしたはずです」と弁明していますが、彼らの視線と手は小さな者には向けられていませんでした。イエスさまはそれを指摘なさいました。

滅びを宣告された人々には損得勘定があったのではないでしょうか。この人ならば、今助けておけば将来の利益に繋がる。でもこっちの人を助けても得にはならない。そのようなソロバンを弾いていたのではないでしょうか。それは本当の親切ではありませんし、そこに愛はありません。愛のある交わりをできない人には絶望が待っていると、イエスさまは警告なさったのです。

この警告は私たちの心にも鳴り渡ります。つい、人を選んでしまいます。「この人は分かる人だから」とか、「この人はどうせ分からないから」というような基準で扱いを変えたり、「この人とは前にこんなことがあったからなぁ」「どうせまた…」と考えて遠ざけたりします。イエスさまは、このような損得勘定からは無縁でした。この方こそ真の羊飼いであり、真の王です。

イエスさまは語り掛ける相手を決して損得勘定で選ばれませんでした。ファリサイ派の人々やサドカイ派の人々との間にも対話を繰り返し、導こうとされました。イエスさまは救う相手を決して損得勘定でえらばれませんでした。羊飼いが羊のために命を投げ出すように、全ての羊のために御自身の命を差し出してくださいました。悪い羊のためにも、僕として仕えるかのように、あらゆる人をフォローし、受け止めてくださいました。

イエスさまは私たちを導いてくださいます。肉の思いに囚われ、閉じ込められている私たちを解放し、愛を行う者へと作り変えてくださいます。愛を行えなかった時には、私たちを引き戻し、愛の大切さを改めて教えてくださいます。また、私たちの手が届かないところには、主が手を伸べてくださいます。

私たちは希望を持って、この羊飼いについて行くのです。

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