2024年11月3日
イザヤ書 44:6-17
「並ぶもの無き神」
今日、主なる神さまはご自分が唯一の神であると主張なさいました。
紀元前597年、イスラエルの内の主だった人々はネブカドネツァルによってバビロニアの首都バビロンに虜として連れ去られました。いわゆるバビロン捕囚です。バビロンでイスラエルの人々は問いました。何故自分たちはこのような仕打ちを受けなければならないのだろうか。彼らは、「わたしたちが主を忘れていたから、神ならぬものを拝んでいたために主なる神さまの怒りを受けたのだ。」という答えを出すに至りました。
捕囚の地で彼らは自分たちのアイデンティティを再発見し、主に立ち返りました。これをご覧になった神さまは、「最早苦しむ必要はない」と、イスラエルの人々を解放するためにペルシャの王キュロスを用いてバビロニアを撃たれました。先ほど読まれた御言葉がイザヤを通して語られた時代とは、キュロスによって解放される直前の時期、捕囚期の末期にあたります。
この当時のことについて、大英博物館に収蔵されているキュロス円筒碑文に記録が残されています。バビロニア王国の最後の王ナボニドゥスはアッカドの神々の偶像を各地にある聖所からバビロンに運ばせてこれを祭っていました。特に天体を崇拝して月の神のために神殿まで建造しました。
しかし紀元前539年、キュロスはバビロンを攻撃し、なんと無血入城に成功します。バビロニアを下したキュロスは、そこに集められていた神々の像を各々の町に返還し、また虜となっていた人々をそれぞれの土地に帰還させました。
通常、私たちが注目するのはイスラエルの人々についてなのですが、目を神々の像に向けますと、人の手で刻まれた像は、ある王が集めよと言えば集められ、別の王が散らせと言えば散らされるような存在でしかないということが浮き彫りになります。偶像は、つまり偶像によって表される神は人間によって使役され、支配される存在に落ちてしまう可能性を持つのです。
それに対して「私は違う」と主なる神さまは宣言なさいます。
捕囚の憂き目に遭うまでの間、サウルから始まり、ダビデ、ソロモンなど数々の王がイスラエルを支配しました。捕囚の時期にはバビロンの王がイスラエルを支配しました。しかし神さまはご自身こそが王であり、あらゆる権威、あらゆる力の源であると宣言なさいます。そのご支配は歴史を超えて代々に及びます。
それと比較すると、人が建てた権威はどれほどのものでしょうか。かつてのイスラエルの王たちの支配は既に通り過ぎていってしまいました。それを征服したバビロニアの支配も、今や揺るがされつつあります。主のご支配は、世の初めから世の終わりにまで至ります。世の時は、神の時の内にあるからです。
続けて宣言なさいます。主の他に神はない。主なる神さまこそ、ただお一人、神なのです。実績を挙げてそのことを宣言なさいます。
古代にあっては、それぞれの民族は各々固有の神を祀り、信仰していました。ある民族が他の民族に征服されるということはつまり、一つの神が他の神に負けるということと、ほとんど同じ意味合いを持っていました。そう考えるならば、イスラエルの神はバビロニアの神に負けたのではないかと言えそうなのですが、イスラエルに関しては違うと言えます。何故ならば、主なる神は王国が成立する前には士師と呼ばれる人々を立て、また王国の時代には預言者を立て、イスラエルが勝つ時には「あなたがたは勝つ」と告げ知らせ、イスラエルが負ける時には「あなたがたは負ける」と告げさせてきたからです。
預言者たちは「神に立ち帰れ、そうしないと北からの力によって神はあなた方を撃たれるだろう」と、繰り返し告げていたのです。イスラエルの人々が強い時も、弱い時も、主は常にイスラエルと共にあった唯一のお方なのです。今も主はイスラエルと共に在り、彼らに告げ知らせます。
「恐れるな。おびえるな。」
イスラエルの背きを怒っておられた神はイスラエルの苦しみをご覧になって、そしてイスラエルの立ち返りをご覧になって慰めを語られたのです。
そして偶像を嘲笑なさいます。それらは人間に対して主たり得るでしょうか。バビロニアの王ナボニドゥスは神々の像をバビロンに集めましたが、それはつまり神々がナボニドゥスによって、人間によって、使われたということです。使う者と使われる者、どちらが主人でしょうか。
確かに刻まれた像は鍛えられた道具と職人の優れた技術によって、実に精巧に作られているのでしょう。しかし、その職人は所詮人間です。人間は、この小さな頭の中に納まる程度の物しか作ることができません。それに対して神さまが創られたものはどうでしょう。神さまは世界をお造りになりました。それも道具を使ってではなく、御言葉によって創られました。バビロニアの人々は星々や月を拝んでいますが、それらを天に配置なさったのも主なる神さまです。そんなことが人間にできるでしょうか。いかに優れた職人の業と言えども、主の創造の御業には到底及びません。
造り手に大きな違いがあることは分かりました。では、造られた物の方はどうでしょう。職人は人の形に似せて神々の像を造りました。これに対し、神さまは御自身に似せて人を、私たちを創られました。「似せる」という言葉が持つニュアンスには幅があります。神さまが人をご自身に似せて作られた時、そこに込められた思いは、「神さまに倣う者として」、似せて創られました。それに対して職人が人間に似せて神々の像を作る時、それは「偽物」に過ぎません。有限の存在に似せて無限の存在の形を表そうとするなど、実におこがましいこと、主客転倒そのものではありませんか。
ここから先、視線は偶像の材料に向けられますが、神さまの御言葉は激しさを増していきます。主客転倒の構図を故意に織り込んで、偶像を徹底的にやり込めます。
14節からの文章を読んでいて、私は群馬の山奥で職人として働いていた時の事を思い出しました。私が住んでいたみなかみ町はほとんど新潟に近い所に位置していますし、標高も高いので秦野と比べて随分と気温の低い土地です。今くらいの時期には工場ではストーブに火を入れます。作業場の真ん中あたりに鋳物のダルマストーブが置いてあって、材木のくずを燃料として燃やします。
品物を作るにあたって職人は材料を選びます。普通ならまず品物を作るための材を選び、必要な部分を切り取って使い、使い物にならない部分や切り屑、削りカスを燃料に使います。しかし、ここで主は敢えて逆のことを仰っています。まず自分たちが暖まったりパンや肉を焼いたりするための燃料を取って、その残りで神々の像を作ると仰っています。つまり、「お前たちが作っているものなど、その程度のものなのだ。」と、強烈な批判を加えています。職人たちに、「あなた方の造る聖なる物とは何なのか。神聖さとは何なのか、何に由来するのか。」と聞きたくなってしまいます。
主なる神さまは言葉によって世界を創造されました。そして言葉によって御心を語られます。だから、私たちは御言葉を聞きます。また、御言葉を取り次ぐ者は言葉を注意深く選び、構成するわけです。完全ではないにせよ、自分の能力の及ぶ限りにおいて最善を尽くし、またより良い言葉を用いることが出来るように研鑽を積むわけです。神さまが言葉によって与えて下さる恵みを、より深く受けることができるように、また伝えることができるように。
それに対して偶像を作る者が得られる恵みとはどのようなものだったか。なるほど、料理したものを食べて満腹し、寒さはしのげるかもしれない。つまり、肉体的な満足は得られるかもしれません。しかし魂が危機の時に偶像は助けてくれるでしょうか。もしもそれらの像に力があるのであれば、偶像がたくさん集められていたバビロンの町はキュロスに攻められても陥落することはなかったでしょう。それ以前に、もともとそれらの偶像があった町はバビロニアによって征服されることはなかったでしょう。
木を刻んで作られた像は、薪と同じで、しょせん燃えれば灰になってしまうものに過ぎず、永遠の物ではありません。そのような物に、それも自分が作った物にすがって一体何になるでしょう。私たちが頼るべき方は、永遠の方であって、私たちが辛い時には隠れ家となって下さる。日差しから守って下さる。心が渇く時に水を与えて下さる。確固として変わる事のないお方なのです。そのようなお方が主以外にあるでしょうか。
今日、主はとても強い言葉を発せられました。人を愛するということに関して、ご自身以上の方は居られないと私たちに分からせたいと思っておられるからです。
この神さまは、私たちが地上に生を受ける前から私たちを愛して下さっています。私たちが地上での生を終えるまで、愛して下さっています。私たちが強い時も、弱い時も私たちを見詰めて、守って、導いてくださっています。そのことを私たちは知っているはずです。特に長く生きた者こそ、その事を深く知っているはずです。だから神さまは皆さんを「あなたがたは私の証人」と言われるのです。皆さんは神さまの愛を知っていると、神さまが信じておられるのです。そして、神さまの愛を証しできると、神さまは信じておられるのです。
今の私たちは誰かの手で刻まれた像を拝んだりはしないでしょう。しかし、自分の小さな頭で考えた作り事に囚われる危険は誰にでもあります。誰かが考えた作り事に囚われる危険は誰にでもあります。それにしがみつき、神さまの大きさを捕え損ねてしまう危険があります。一つのものを見ても、それぞれに捉え方は違います。だからこそ私たちは様々な人の生きる姿、証しに耳を傾けるのです。神さまの愛の豊かさをより深く知るために。
今日は特に、既に天に帰った友と一緒に礼拝を守っています。この友人たちは生きる姿を通して私たちに神さまの愛を証ししてくれました。神さまがこれらの人々をどのように愛されたのか、また神さまの愛にどう応えたのかを思い起こしつつ、共に主の食卓を囲みましょう。
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