待降節節第1主日礼拝説教

2024年12月1日

イザヤ書 2:1-5

「剣を鋤に」

未来について思いを馳せた時、私たちはどのようなイメージを持つでしょうか。

未来像は、その時代の世相によって大きく変わります。例えば高度成長期やバブルの時代などは、未来は無限に明るく開かれているという希望的なイメージを持つ人が多かったでしょう。頑張れば頑張るほど豊かになる、問題が生じてもそれは乗り越えられる、頑張りが良い報いを与えてくれると信じられる人々は幸せだと思います。

その逆に、停滞や衰退の時代においては、中々希望的なイメージを持てません。船に水が入っているのに、底の抜けた柄杓で水を汲み出さなければならないというような、決して生産的とは言えない作業をしているかのような気分になってしまいます。

イザヤは、ユダ王国が成長から停滞へ、更には衰退へと移り変わる時期に預言をしました。

彼が預言を始める直前には、ウジヤがユダ王国を治めていました。ウジヤ王は北イスラエル王国との関係を修復し、協力関係を築いたので、勢力の拡大に成功しました。軍隊を再編成し、農業の発展にも力を入れ、繁栄した時代を築き上げました。その結果、エルサレムでは商業活動が活発になり、人々の生活は贅沢になりました。

エルサレムの人々はウジヤが崩御した後もしばらくは繁栄の余韻を味わっていましたが、その陰で世界は大転換期を迎えていました。ユダから見て北東、今のイラクの辺りにあったアッシリアは、新たに即位したティグラト・ピレセル3世による改革を受けて、極めて強大な国へと変貌していました。

ユダ王国のひとびとは繁栄の夢から醒めておらず、貧しい人々を抑圧して、傲慢な生活を送っていました。この時20代の半ばであったイザヤはエルサレムの人々に厳しい口調で警告を発します。

イザヤは時代の変化に敏感でした。アッシリアの台頭を察知すると、その手がユダ王国やイスラエル王国にまで伸ばされるだろうと考え、その危険を支配者層に知らせます。また、豊かさの余韻に浸って惚けている人々に対しては、その間違いを指摘します。

国際情勢にしても、環境問題にしても、経済の問題にしても、これから先に明るい未来が待っていると、手放しには考えられないという点で、イザヤの時代と現在は極めて近しいと思わされます。若い人の方が未来を批判的に、あるいは悲観的に捉えるという傾向は、今でも同じでしょう。今の若い人たちも未来を楽観的には捉えていません。ある若者は苛立ちを覚えつつも世に対して警告を発しますが、世の中は中々変わりません。変わらない世の中を見て、怒る若者も居れば、未来を諦める若者も居ます。さらには、追い詰められた状況からどのように脱すれば良いのかも分からず、建設的ではない生き方や犯罪的な生き方を選ぶ人も居ます。

働く気力を喪ったり、家庭を築き、子を産み、育て、未来へ繋げようという意欲を喪ったりして、狭い部屋に閉じこもってしまう人が居ます。世界との交わりを拒否してしまいます。彼らはひたすらに疲れているのではないかと想像します。

今の時代、ただでさえ人は不公平感に敏感になっています。同じように努力しても得られるものに差がある。それは、ある意味では仕方の無いことではあるのです。チャンスと巡り会えるかどうかは人の努力以外のところで決まってしまうからです。ただ、どれほど努力してもその差が埋められない、あるいは他の人が努力の成果を奪ってしまう、チャンスを消し去ってしまうというのでは、人は。この世界は自分を愛していないと考え、世界を愛せなくなってしまいます。生きることに空しさを覚え、努力を放棄せざるを得なくなってしまいます。世に対して敵意を持つ人も出ます。徒労感が人間から希望や愛を奪ってしまうのです。そのような時代であるからこそ、私たちは世に対して希望を、愛を語るべきですし、また言葉だけではなく、私たちの姿勢をもって希望と愛を伝えるべきです。

イザヤは主の家の山が山々の頭として堅く立ち、どの峰よりも高くそびえると預言しています。ここで主の山と呼ばれているのは、かつてアブラハムがイサクを捧げようと上ったモリヤの山です。アブラハムは神さまを信じ、イサクを屠ろうとしました。その結果、捧げものとして相応しい羊が備えられ、子孫の繁栄という希望の祝福を与えられました。

イザヤの時代、アブラハムがイサクを捧げようとした山にはエルサレムの神殿が建てられていました。今、その場所にはイスラムの聖所である岩のドームが建っていて、ムスリムでなければそこで礼拝を捧げられなくなっています。しかし、私たちは最早神殿を必要としません。

アブラハムのために備えられた小羊に優る完全な捧げもの、傷の無い小羊として神の御子イエスさまが捧げられ、私たちはその御姿を仰ぎ見ているからです。

主の言葉はエルサレムから出るとイザヤは言います。これはエルサレムの神殿に納められていた律法を指しています。律法の神髄とは何だったでしょう。神さまへの愛であり、隣り人への愛です。

山の上でイエスさまは私たちに教えてくださいました。与えなさい、そうすればあなたも与えられる。希望を与える。喜びを与える。チャンスを与える。温もりを与える。この山は神殿の山よりも高く聳え立っています。ここで主が示され、与えられた御言葉こそがキリスト者の精神であろうと私は信じます。

イザヤは主の裁きと判決を語ります。私たちが互いに与えあう時、父なる神さまは私たちの姿を御覧になり、それを良しとしてくださいます。それが裁きです。その時、もはや誰も不満を持つ必要が無くなり、世に対しても誰に対しても怒る理由が無くなります。剣は鋤に、槍は鎌に打ち直されます。誰も怒りの腕を振り上げる必要が無くなります。

イザヤは今日の預言を「さあ、主の光の中を歩もう」と締めくくります。暗い現実の中にあって、希望を見出しにくい時代にあって、主イエスという光を、福音という光を持って私たちは歩むのです。

このような時代だからこそ、私たちは与えることに積極的になるべきなのです。私たちはもう充分に頂きました。これからは持たない人に与えるために、チャンスを与えるために私たちは努力すべきなのです。

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