待降節節第2主日礼拝説教

2024年12月22日

イザヤ書 7:10-14

「恐れを超えて」

心が弱くなっている時に「希望を捨てるな」と言われても、中々難しいものがあります。確かな証拠が何かあるのであればともかく、そうでなければ人間は迷い、時には選んではならない道を選んでしまうこともあります。

ユダの王アハズは、まさにそのような状況に置かれていました。ユダから見て遥かに北西、今のイラク北部の辺りにアッシリアという国がありました。アハズの時代、この国は急激に成長していました。その力は地中海沿岸にまで及び、シリアや北イスラエルは支配下に置かれようとしていました。

この当時、大きな国と言えばアッシリアの他にはエジプトがありました。アッシリアは勢力を拡大しつつありましたが、エジプトと国境を接するまでに国を大きくしようとは考えていませんでした。何故ならば、そうなるとエジプトの力を自力で受け止めなければならなくなってしまうからです。そこでアッシリアは、シリアと北イスラエルについては直接の支配下に置き、エジプトとの間にあるユダやエドムなどの国々は独立を保つ、と言うより放置しておいて、これらの国々をクッションとして使おうと考えました。

シリアとイスラエルは、アッシリアに貢ぎ物を収めるように求められます。それも、尋常じゃない額の貢ぎ物です。そこで、この両国は同盟し、アッシリアに立ち向かう決意をしました。北イスラエルはユダにも同盟に入るよう要請をします。これは同じ民族の国として協力したかったのでしょう。しかし、ユダの王アハズはこれを拒否します。アッシリアから直接の圧力を加えられていないユダにとっては、ここで下手にアッシリアを敵に回したくはないというのが理由だったでしょう。

シリアとイスラエルはアハズの姿勢に怒りを覚え、力づくでも同盟を組ませようとユダに軍隊を進めます。これを見たユダの国は、王も国民も揃って恐怖します。王は何と、恐しさのあまり我が子を焼き尽くす犠牲として神に捧げるほどでした。これはもちろん、私たちの神さまの欲する行為ではありません。彼は危機に臨んで異教の神を頼ったのです。

イザヤは主なる神さまから預かった御言葉をアハズに伝えます。「落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない。例えシリアとイスラエルが怒ったとしても、これらの国々はアッシリアに撃たれて燃え残り、煙っている丸太に過ぎない。」

実際、その通りでした。両国は軍隊を進めて来ましたが、どちらの国にも持久力はありませんでした。今の危機を凌ぎさえすれば、両国は自ずと弱体化するはずで、そうなればユダは独立を維持できました。実際、この10年ほど後にイスラエルは滅んでしまいました。

ところがアハズはアッシリアに援助を求め、アッシリアの力で両国を退けてもらおうと考えます。イザヤはアハズに決断を迫ります。

「深く陰府へとしるしを求めるのか、それとも天へと高く求めるのか。」

「深く陰府に」とはアッシリアを指しています。大国の援助を勝利の約束と見て、アッシリアの軍隊を国内に入れるのか、あるいは高く天に、つまり神さまの約束を信じて自力で防衛するのか、どちらをあなたは選ぶのかと選択を突き付けます。

どのような国も無償で軍事支援などするわけがありません。他国の要請を受けて軍隊を動かすのであれば、それなりのメリットを求めます。求められる対価が例えば貢ぎ物であったにせよ、あるいは支配であったにせよ、国と国民は経済的にも生活においても、また精神的にも自由を失い、苦しまなければならなくなってしまいます。今ここでアッシリアを頼れば、国も国民も独立を喪ってしまいます。

これに対して、自力での防衛は確かに困難な道ではありますが、攻めて来たシリアとイスラエルを撃退できる可能性は充分にあり、これに成功すれば、もちろん損害は被りますが独立は保てます。このどちらかを選ばなければならない場面であり、どちらが良いかは自明ではないかとイザヤは言うのです。

アッシリアを頼るのか、自力で防衛するのか。この問いにアハズはハッキリとは答えませんでした。「陰府の方をたよる」とは答え辛いのですが、さりとて戦う覚悟も持てませんでした。アッシリアの援助無しに自力で戦って万一破れてしまったら、神さまと王国の両方を貶めてしまうことになる。それをアハズは「主を試すようなことはしない」と言い換えたのです。

「主を試すようなことをしない」という、この言葉だけを抜き取って見てみると、「あなたの神である主を試してはならない」という御言葉を知っている私たちにとっては、アハズは正しい答えを出したのではないかと思えますが、実はこの返事は「神さまを信じられない」という気持ちの表れでしかありません。「結局はアッシリアの助けを求めないわけにはいかないのだ」という、消極的な選択を暗に示しています。

イザヤはアハズの態度を、人間だけではなく神さままでももどかしくさせる優柔不断な態度であるとして、神さまから与えられるしるしを提示します。それが、乙女が生む男の子、インマヌエルです。

命は神さまの御支配の下にあります。生きるのも死ぬのも、神さまの御手の内で営まれる命の歩みです。この命が神さまの約束のしるしとなる。アブラハムにイサクが生まれたのは、神さまの約束が虚しくなかった証拠でした。先週はサムソンのお話をしましたが、彼も神さまの約束によって生まれた子どもでした。神さまは今、一人の子どもによってユダを救うという約束を確かにされるとイザヤは預言します。

この時代、王の即位もまた、「神が生んだ」と表現しました。

アハズが神さまに従わないのであれば、乙女が生んだ男の子がアハズに代わって王となる、つまりアハズは滅ぼされるが、神さまを信じる者にとっては救いとなるとイザヤは告げます。この子どもはインマヌエルと呼ばれるとイザヤは預言しました。「神は私たちと共にある」という意味の名を持つ子どもの誕生が、福音書においても予告されています。イエスさまの受胎が告げられるシーンです。

ルカにおいて受胎はマリアへ伝えられましたが、マタイにおいてはヨセフに告げられています。ヨセフは聖書の中ではごくわずかな場面でしか登場しません。天使が現れる前、既に彼はマリアの妊娠を知っていましたが、この事態をどのように受け止めたでしょう。密かに離縁しようとしたと書かれています。

何の葛藤も無しに離縁を決めたわけではないでしょう。マリアを妻に迎えるのも、離縁するのも、どちらも彼にとっては不安に満ちた歩みとなります。彼は正しい人であったので、つまり律法に従って生きる人でした。規定に従って離縁したとすれば、マリアは不義を犯したとして死罪となってしまいます。しかし、結婚前に身籠った女性を妻に迎えて、その家庭が平和に営まれるだろうか。どちらを選んだとしても、後に悩むでしょう。

そんなヨセフのもとに天使が現れて告げました。

「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。」

「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」

天使は神さまが全ての人と共におられる、ヨセフとも一緒におられると告げたのです。

大事な岐路に立たされた時に、その選択を誤ると、後悔してもしきれないような道しか歩めないのです。でも、神さまは選択を誤った者をお見捨てにはなりません。アハズによって誤った道を歩んだユダでしたが、神さまはユダの人々を取り戻してくださいました。アッシリアはバビロンに討たれました。再びユダが罪に堕ちた時、選択を誤った時にはバビロンがユダを打ちましたが、後に神さまは悔い改めたユダを取り戻してくださいました。私たちが罪に堕ちたとしても、神さまは私たちと共に居てくださって、私たちを取り戻して下さるのです。私たちに希望を与えて下さるのです。その約束のしるしこそ、神の独り子イエスさまの誕生です。

神さまは必ず勝利されます。どのように生きれば良いのか分からなくて恐れを覚える時、私たちのなすべき選択は、神さまと共に歩むという選択です。自らの罪に恐れおののく時、私たちは罪を深く悔い、それでもなお共に歩んで下さる神さまにおすがりするのです。それこそ私たちが恐れを超えて為すべき選択、私たちの歩むべき道です。

神さまはいつも私たちと共に居られます。

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