クリスマス・イヴ燭火礼拝説教

2024年12月22日

ルカによる福音書 2:1-20

「降誕の食卓」

イエスさまは夜にお生まれになりました。と、言うことは、このイヴの礼拝はイエスさまのお誕生の瞬間に立ち会う時と言う意味で、クリスマスの諸行事の中でも最も重要な礼拝です。

クリスマス・イヴを迎えると、毎年思い出してしまう出来事があります。

神学生であった私にとっては、イヴの礼拝も大事な実習でしたので、実習教会で裏方として奉仕しながら、師匠である指導牧師の働く姿や説教を見て学んでいました。礼拝が終わると、出席者が帰ってから片付けをします。全てが終わって、最後に教会を出ようとしている私を、牧師夫妻が見送ってくださいました。

その時、師匠が何気なく私に質問をします。「これからどうするの?」と。「ココ壱でカレーを食べて帰ります」と答えましたら師匠は「ココ壱でカレー!イヴの夜に!一人で!」と笑い出しました。内心では「実習ですから仕方ないですよね」と思いながらも口では「うるせえジジイ!」と言い、二人ではしゃいでいました。私たちの姿を見る牧師夫人が微笑んでいたのか、あるいは苦々しく見詰めていたのかは記憶にありません。とにかく二人で大笑いしていました。

クリスマス・イヴの夜を特別に感じる人は多いと思います。クリスチャンでなくても、クリスマスはどこかウキウキと楽しく幸せな気分になります。

御降誕の夜、厩の中には、無事に赤ちゃんが生まれた安堵感、暖かく、微笑ましい雰囲気が満ちていました。まさに幸せな時が流れていたことでしょう。ではイエスさまは幸せな幼少期を過ごされたのでしょうか。聖書にはイエスさまの子ども時代についての記述がほとんどありません。イエスさまの教えや御業の数々はたくさん残っているのにも関わらずです。

イエスさまは家庭的には満たされていなかったのではないかと私は推測します。福音書には、イエスさまに対する家族の無理解しか書き記されていないからです。12歳になったイエスさまが家族総出で宮参りをした時など、イエスさまの姿が見えなくなって丸一日が経って、やっと不在に気付く始末です。マリアには息子に対する愛情があったにはあったのでしょうが、イエスさまを理解し、積極的に応援しようという姿勢は全く示していません。私の見方は人情味に欠けているかもしれませんが、マリアはただただオロオロするだけの母親です。

この家族に対するイエスさまの接し方も、冷淡であると言わざるを得ないような態度でした。家族がイエスさまを訪ねて来た時、イエスさまが「見なさい、ここに私の母、私の兄弟が居る」と仰って指差したのは、御自身の周りを囲んでいる人々であって、兄弟たちやマリアではありませんでした。イエスさまは肉親との関係において、幸せな家庭を持てなかったのではないかと考えます。

イエスさまは、家族や家庭を信仰によって築こうとなさったのだろうと思います。

子どもは必ず親から離れる時が来る。それは、最初の人であるアダムの時から定められていました。「こういうわけで、男は父母を離れて妻と結ばれ、二人は一体となる。」と書いてある通りです。人は親の下を離れて共に生きる者を探します。そして、それまでの暮らしで得た物を分かち合い、得られなかった物を補い合うのです。

イエスさまは父なる神さまの御許から、この地上に遣わされました。イエスさまには欠け等在らず、ただただ人に与えるために遣わされ、人の欠け、罪深さを全て負うために地上を旅されました。

最初は洗礼者ヨハネの弟子として師匠に学び、得た結論として、血縁や立場に関係無く誰もが安心して集える家庭を築こうと決心なさった。そして、その家庭の中心、家族の営みの真ん中に食卓を置かれた。イエスさまは誰もが囲める豊かな食卓を目指されたのです。

ルカによる福音書を見ますと、イエスさまが様々な人々と度々食事をなさったことに気付きます。イエスさまは色々な人たちと食事をなさいました。そのどれもが豊かな食事でした。ファリサイ派や律法学者たちと囲んだ食卓では、体裁ばかりを気にする彼らを厳しく批判なさいましたが、これすらも彼らを可哀想に思われるが故、誤りに気付いて欲しいとの思いのためであったでしょう。

食卓の豊かさは料理の質には全く左右されません。むしろ、そこに集う人々の心に暖かさや優しさがあるかどうかが、その食卓の豊かさを決めます。例え素晴らしい料理がたくさん並べられていたとしても、誰かが激しく怒鳴っていたり、ケンカをしていたり、あるいは互いに無関心で無視しあっているようでは、その食卓は豊かとはとても言えません。

ギスギスした食卓に大人はまだ我慢できるかもしれませんが、子どもにとってはたまったものではありません。食卓を立つわけにもいかず、黙々と箸を動かす。食べ物を口に入れても、何の味もしない、砂を噛むような食事。そんな惨めな食事は心まで荒ませます。

食卓は、命を分かち合い、幸せを共に感じるべき場です。だから、誰かと一緒に食卓を囲めればとても嬉しくなりますし、それができなくなってしまうと、たまらなく悲しくなります。

イエスさまの食卓には優しさがありました。この食卓には人の心を包み込む何かがあり、私たちを縛る様々な鎖、例えば子どもの頃の辛い経験であったり、いま突き付けられている厳しい現実や、未来への不安であったりという鎖を砕く、可能性が、希望が用意されています。イエスさまはこの食卓に私たちを招いておられます。

私はイヴの礼拝で皆さんとイエスさまの御降誕を祝えることを嬉しく思っています。今年は、近所の人にも声を掛けてみたのですが、ある方はハッキリとお断りされました。実は断られて良かったとも思いました。というのは、その方はお子さんとのクリスマスの夕食を優先なさったからです。

イヴの食事は、子どもにとってはお誕生日の食事と並んで一年に何回かある、とても楽しい食事、普段よりも更に幸せな食事でしょう。そんな食事が、同じ日に多くの場所で、世界中で実現するのです。いま私たちは、ここにある主の食卓を共に囲み、御言葉という糧を頂いています。この食卓の周りに無数の食卓があり、そのどれもが笑顔で満たされています。主イエスが、この様子を微笑みながら御覧になっています。

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