2024年12月29日
マタイによる福音書 2:1-12
「メシアの生まれる町」
イエスさまがお生まれになると、東の国から博士たちがユダヤにやって来たと聖書は記しています。福音が一般に知られてから比較的初期の時代には、16節にある記述を根拠として、これは御降誕の2年後の出来事であったと考えられていましたが、アウグスティヌスがこれを、御降誕から13日目の出来事であると述べたことからそれが定着し、後に公現日が定められました。
聖書には人数までは記録されていませんが、一般には三人であると理解されています。博士たちの専門は占星術でした。今でこそ占いは娯楽の一つのように扱われていますが、この当時、占星術は最先端の科学でした。星に込めた象徴的な意味や高度な数学を組み合わせて、政治や経済、社会や天候などについての未来予測を立てるための学問です。
博士たちは、その専門技術を用いて、人々が必要とする情報を提供するのが仕事であって、ある意味においては中立的な立場から、別の角度で言うならば傍観者的な立場から情報を提供するように求められていました。
星々を観察し、分析した結果、三日後にどこかで大災害が発生するとの予測がたったとしても、また一週間後に戦争が起きようと、それ自体は客観的なデータに基づく結論であって、一つの情報に過ぎなかった、もっと言うならば一つの可能性に過ぎなかったはずです。
ある時、彼らは奇妙な星を発見します。夜空に突然現れ、明るく輝きます。もしかすると、この星はハレー彗星だったかもしれません。また、中国の記録では紀元前5年か4年の頃に彗星が現れたとの記録があります。
博士たちはこの星を分析し、一つの情報を引き出そうとします。観察し、分析し、様々な研究報告や諸々の文献と突き合わせた結果、どうやらそれは「救い主の誕生」を告げる印であると彼らは結論付けました。
問題は、その後のことです。星々の観察から導き出した結論をまとめ、記録し、報告書を作成し、大臣なり王なりに提出した後は、仕事を無事に終えたとして家に帰っても良かったはずです。ところが彼らはそうしませんでした。その星の情報に基づいて旅立ちました。当時の旅は危険を伴います。
この時代、東の国にはアルサケス朝ペルシャ、またの名をパルティアとしても知られる大国が、今のイランからイラクに掛けての地域に存在していました。もし博士たちがペルシャの人間だったとすると、砂漠を超えての旅となります。敢えて自分の生活の場を離れ、遠く危険な旅に出発します。
彼らの本業は観察と分析であって、実証までは求められません。というより、彼らは分析の結果を自分たちの力では実証できません。
もし、彼らの仕事がプログラミングですとか製造であったならば、自分の考えたプログラムや製造ラインを実際に組んでみて、有効に動くと実証できたでしょうし、その必要もあったでしょう。しかし、彼らは将来起きるだろう出来事の予測までが仕事であって、予測が的中するかどうかにまでは彼らの能力は及ばないのです。であれば、こんな旅をする必要はありません。
しかも、彼らの予測は、遥か西の国に救い主が生まれるというものであって、彼らの国への影響があるとは思えません。であれば、旅の動機が研究結果の確認であれ、「救い主の誕生」という歴史的イベントに立ち会うためであれ、そこまでして行く必要は無いはずでした。観察者としての彼らにとって、この旅に意味はありません。
では、なぜ彼らは旅だったのでしょうか。博士たちは「拝みに行く」ために旅立ったのです。
「拝む」とは能動的な行為です。
私などは自分を観察者の立場に置く傾向にあります。私がお世話になっているチェロの先生の生徒さんに、不運が続いた時期がありました。すると別の生徒さんが「お祓いを受けた方が良いよ」と言い出して、言い出しっぺの生徒さんと不運続きの生徒さん、それに先生がお祓いを受けに行くという話になりました。で、その人はなんと私にもお声を掛けてくださいました。もちろん、その方は私が牧師であると御存知なので、「まずかったら断ってください」という前置きがあってのお誘いでしたが、私は興味がありましたので「見学という立場でよろしければ連れて行ってください」とお答えしました。私はお堂の隅に座って、お祓いをするお坊さんや私の友人たちが拝んだり祈ったりする様子を観察しました。
博士たちは、私のように観察するために旅をしたのではありません。彼らは拝むために旅をしました。これは、中立的な姿勢でも、傍観者的な姿勢でもありません。イエスさまとの関係の中に飛び込み、自分自身を告白し、自分の立つべき根拠を確認する行為です。博士たちは今、学者や専門家、あるいは技術者という肩書を持つ者としてではなく、一人の人間として、主イエスの前に立とうとしています。
ここ数ヶ月、日曜日の深夜に「坂の上の雲」を再放送しています。私は眠くて見られないのですが。「真砂なす数なき星の中にあり吾に向かいて光る星あり」という句があります。
博士たちは、その星が自分たちに呼び掛けていると信じました。その星が自分たちの人生、自分たちの生き方に何か決定的なものを伝えていると信じて旅に出たのです。
クリスマス・イブの礼拝は、普段の礼拝とは少し違います。牧師のすべきことは、開式の際に読まれる招きの言葉と御言葉の説き明かしだけです。それ以外は集まる皆さんの役割です。信徒の皆さんが能動的に関わって御降誕の礼拝を形作る、赤ちゃんのイエスさまを拝む場を作るという特徴を持っています。クリスマスは、私たち全てに関りがあるのです。
博士たちが見た星は、今、この時代に生きる私たちにも呼びかけています。
新しい年を迎えようとしています。新たな旅立ちの時が来ようとしています。
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