2024年12月8日
イザヤ書 59:12-20
「主は自ら勝利される」
大人になると時の進みが早く感じられます。12月に入るとクリスマスを控えて心待ちにしますが、子どもの頃はアドヴェントの期間がとても長く感じられました。「クリスマスまで、あと何日残っているんだ」と、毎日じれったくなっていましたが、大人になった今では、急いで準備しなければいけないと感じるほどに、時が早く過ぎて行ってしまいます。
これは、時間の認識が子どもと大人とでは違うために起きる感覚のズレなのだそうです。子どもにとっては普段の生活の中で出会う様々な出来事が新鮮で、常に心が震わされているために、言わば一分一秒が充実しているために、時間が長く感じられるのだそうです。これに対して大人は、目にする物事の多くが既に経験済みであるために、出来事を心の中で簡単に処理して済ませてしまうのだそうです。一つひとつの出来事をサッと処理してしまうために、時間の認識についてもサッと流されてしまうのだそうです。慣れが私たちの日常をありふれたものとし、時を早く流してしまうのです。
よく知っているために、あるいは知っていると思い込んでいるために、目の前に起きている出来事の本質を捉えそこなうという場合があります。日常的な習慣が惰性となって、私たちの感覚を麻痺させ、本当はとても貴重な経験をしているにもかかわらず、それをありふれたものだと思わせたり、奇跡を目の当たりにしているのに、それを認める目が失われていたりするのです。
ガリラヤで数々の奇蹟を行われ、人々を教えられたイエスさまは、故郷であるナザレに帰られました。安息日になると、近所の人たちと一緒に会堂で礼拝を守られます。聖書がイエスさまに手渡され、説教をするように促されます。当時の会堂には説教者、教職として誰か定められた人が居る訳ではなく、その時集まった人たちの中から説教者が立てられるのが習慣でした。きっと、「久し振りに帰って来たのだから、説教を聞かせてくれよ」というような流れだったのでしょう。
イエスさまはここでも、ガリラヤで語られたように御教えを語られました。これを聞いたナザレの人々は、「イエス」という人物をよく知っていました。「この人は大工の息子ではないか。」と言います。何故このような言葉が故郷の人々から出たのでしょう。イエスさまの教えが、つまり聖書の説き明かしが際立って画期的だったために、人々は驚いてしまったのです。少し前まで自分たちの身近に居て、当たり前に世間話をしていた「イエス」という人から、こんなに豊かな説教が出てくるとは思ってもおらず、戸惑ってしまったのです。
確かにナザレの人々はイエスをよく知っていました。続けて「母親はマリアであり、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるでは無いか」と言いますが、確かにその通りです。家族の構成も、どのような暮らし向きなのかも知っているほどに、彼らにとってイエスは当たり前の人だったのです。
しかし、彼らは「イエスさま」を知りませんでした。イエスさまの本質を理解できませんでした。イエスさまを知らなかったからではなく、なまじっか知っていたから、知っているつもりだったから躓いてしまったのです。
ナザレの人々が特別に不信仰だったわけではありません。ここで起きたようなことは、実は誰にでも起き得ます。私たちが聖書の色々な物語や賛美歌、礼拝、教会に、あまりにも親しみ過ぎているために、かえっておざなりとなったり、無感動になったり、大事な何かを見逃したりしてしまうのです。
イザヤの預言を振り返ってみましょう。59章の冒頭でイザヤは、「主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。むしろお前たちの悪が、神とお前たちとの間を隔て、お前たちの罪が神の御顔を隠させ、お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ。」と、神の民の罪を指摘します。
神さまとの間に距離が出来てしまっているのに気付かないのです。突然パカっと溝ができたのであれば、私たちもすぐに気付いたでしょうが、最初は毛先ほどのヒビが少しずつユックリと大きくなったために、気付けなかったのです。毎日、視野の隅でヒビを目にしていたので、いつのまにかヒビがあって当たり前だと勘違いしてしまったのです。
どれほど言い訳をしようとも、溝は溝です。何よりも神さまを嘆かせたのは、執り成す人が居なかったという点です。イスラエルの民は孤立してしまったのです。神さまは民との間にできた溝を放置なさいません。私たちが気付かずに犯してしまった背きを無視なさいません。また、民を孤立したままには置かれません。主御自身が御力を振るい、民を取り戻されます。
神さまは鎧や兜をお召しになっていると書かれています。ずいぶんと物々しいいで立ちですが、それら一つ一つを良く見ると、実は「恵みの御業」であり、「救い」であり、「熱情」でありと、私たちを取り戻し、暖かく迎え入れるための装いであると分かります。
「報復の衣」はどうなんだ、随分物騒な名前だけれど、それは私たちへの報復なのではないかと言われそうですが、この「報復」は私たちにではなく、悪、つまり私たちを神さまから遠ざけようとする者、神さまと私たちとを隔てるものへの報いです。神さまは隔てを私たちから遠ざけてくださるのです。
神さまは私たちとの間に架け橋を掛けてくださるということを、イザヤは神さまがお召しになっているものによって表現していますが、その架け橋こそ、今私たちが御降誕を待ち望んでいるイエスさまです。私たちは日々、目を拭ってイエスさまを見上げ、気付かずに出来てしまった隔てを超えて神さまの御手を求めます。その時、私たちは、実はずっと神さまの御手の内にあったのだということに気付きます。すると神さまの愛に気付かなかった日々の思い出までもが神さまの愛を語り始め、讃美し始めます。
私たちは常に信仰を新たにします。「これが当たり前」という思い込みを捨て、今の私が何を求めているのか、今の世が何を求めているのか、今の世に何ができるのかを吟味し、新しい教会の形を模索します。そうやって、教会は成長し、今まで手を届かせられなかった人々にも福音を届けるのです。まだまだ出来る何かがあるはずです。
自ら働き、勝利される神さまの御力を信じ、私たちもこの業に加わらせていただけるよう祈りましょう。
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