降誕節第7主日礼拝説教

2024年2月11日

ヨハネによる福音書 6:1-15

「五つのパンと二匹の魚」

今日与えられた聖書の御言葉は、いわゆる「五千人の給食」の奇蹟を描いた物語です。御存知の通り、聖書には4つの福音書が収められていますが、マタイ、マルコ、ルカの三つには共通する記述が多く見られ、研究者たちがそれらを互いに比較し、一覧にした共観表を作ったことから、共観福音書と呼ばれています。これに対してヨハネによる福音書には独自の物語が多く、また他の3つの福音書と共通する出来事を描写するにしても独自の観点やスタイルをとることが多いため、独自の資料を用いていると考える神学者も居ます。

このように、ヨハネによる福音書は他の福音書と少し違うと考えられている一方で、「五千人の給食」の物語は全ての福音書に等しく収められている数少ない共通点でもあります。それほどに、この出来事と、それを通してイエスさまが教えよう、伝えようとしておられた思いが重要であったのだと私は考えています。

イエスさまはガリラヤ湖の岸辺に居られます。大勢の人々がイエスさまの後をついて歩いています。彼らはイエスさまの救いの御業、癒しの御業を見て、イエスさまを求めて方々から集まって来たのです。彼らを率いてイエスさまは山に登られました。祈る時など、神さまに近付きたいと願われる時に、イエスさまは山に登られます。そして、山腹に腰を下ろされました。

時期は過ぎ越し祭の少し前の頃でした。過ぎ越し祭は神さまがモーセを用いてヘブライの民をエジプトから救い出されたという、民族の歴史を記念する祭りです。神さまの御救いを記念する祭りであり、民族のアイデンティティを確かめる祭りです。ユダヤ人のアイデンティティの根幹には神さまとの関係がありました。私たちの信仰心がクリスマスを目前にして高まるのと同じように、ユダヤ人の信仰心も過ぎ越し祭を控えて高まっていました。

大勢の人々がイエスさまを慕ってついて来る様子を御覧になって、イエスさまは弟子のフィリポに質問をなさいます。これは、フィリポの考えを引き出すためになされた問いでした。

「どのようにしてこれらの人々を養うべきだろうか。あなたはどう考えるか。」

フィリポは自分たちの持っているお金を基準にしてイエスさまに答えました。「いま私たちが持っている200デナリオンを全て費やしてパンを買って来たとしても、到底足りないでしょう。」

すると、弟子の一人であるアンデレが一人の男の子をイエスさまの御前に連れて来て言います。「この男の子は大麦のパン五つと、二匹の魚を持っていますが、これほど多くの人のためには役に立たないでしょう。」

二人の弟子たちは「足りない、役に立たない」と、最初からあきらめています。

イエスさまは人々を座らせるよう指示されると、人々はそれに従って青草の上に座りました。この時、座った人々の人数は五千人でした。口語訳聖書と新共同訳聖書では「男たち」と訳されています。確かにそのようにも訳せますが、辞書的には「人々」と訳されるべき語であって、「男たち」と訳された文章を元に「当時は女性を物の数に入れていなかった」と解釈するのは行き過ぎだと思います。イエスさまが人を性別で区別して、女性を除外して数えられるとは考えにくいからです。

イエスさまは男の子からパンを受け取り、感謝の祈りを捧げてからこれを割き、座っている人々に配られました。魚をも同じようになさいました。人々が欲しがるだけどんどんお与えになりました。すると不思議なことに、五千人が満腹して、更に残ったパンを集めると12の籠がいっぱいになるほどでした。

イエスさまが配られる時、御手の中でパンと魚は増えたのでしょうか。どちらかと言うと、パンと魚は減らなかったと捉えた方が理解しやすいと思います。パンと魚は象徴です。五つのパンはモーセが記した五つの書物、つまり律法を象徴し、二匹の魚は預言書とそれら以外の書物、つまり諸書を象徴しています。イエスさまは、救いを求めてご自身を慕う人々に対して聖書の御言葉をもって臨まれたのです。

12の籠は12人の弟子たちの心そのものです。イエスさまが人々にパンと魚を配る様子、つまり聖書の御言葉によって飢えている人々に語り掛け、働き掛けられる御姿を見て、弟子たちの心までもが満たされたのです。御言葉は、どれほど与えたとしても決して目減りしません。それどころか、語り掛けられる様子を見ている人々、周囲の人々の心まで満たします。その時、恵みは増えるのです。イエスさまがフィリポに望んでおられたのは、このような答えでした。自分の持っている乏しい中からでも、何とかして御言葉を、神さまの御心を伝えたいと願って差し出す姿勢が、フィリポを始めとした弟子たちに期待されていたのです。

残念ながら、フィリポは自分たちの持っているお金、つまり現実を基準にして考えたために、飢えている人たちに手を差し伸べるまでには至りませんでした。少年の差し出したパンと魚はアンデレにとってはヒントであったはずですが、彼はこれに気付かず、悲観的になっていました。私たちは今、この二人に似てはいないでしょうか。自分たちの体力や時間という現実を基準に伝道を考え、悲観的になってはいないでしょうか。どうせ足りない、無駄だと考えて悲観的になってはいないでしょうか。

悲観的になる弟子たちの前で、少年だけが、子どもだけが自分の持っているものをイエスさまに差し出しました。足りないのではないかと悩んだりせず、悲観的になったりせず、とにかく持っているものを差し出したのです。確かに少年が差し出したパンと魚は限られていました。しかし、イエスさまが御手を伸べて配られる時、それらは決して減らず、むしろ増えるのです。

拙くても良いのです。乏しくても良いのです。私たちは自分に与えられているものを、イエスさまの御手に委ねるために差し出すのです。イエスさまは必ず、私たちの差し出すものを、全ての人に、誰かを除外することなく全ての人に与えて、その人を満たしてくださいます。そして、私たちもまた満たされるのです。

説教目次へ