受難節第1主日礼拝説教

2024年2月18日

マタイによる福音書 4:1-11

「荒れ野の誘惑」

今日から教会の期節は受難節に入ります。イースターの前の40日と日曜日を加えた受難節は、イエスさまの御受難を覚えるための7週間です。聖書において40は受難や試練を表す数字として登場します。例えばノアの洪水のもお語りでは40日40夜雨が降り続きましたし、モーセは40日の間シナイ山に留まりました。また彼に率いられたイスラエルの民は40年間、荒れ野を彷徨いました。イエスさまは荒れ野で断食をなさいましたが、この日数も40日です。これから始まる受難節において、私たちはイエスさまの御苦しみを思いつつ日々を過ごします。

イエスさまは洗礼を受け、聖霊を注がれると宣教の御業を始める前に断食をなさいました。40日の後、イエスさまは空腹を覚えられました。私自身は断食の経験がありませんが、私の友人が挑戦してみたそうです。最初の数日間は空腹感が辛くてたまらなかったそうですが、そのピークを過ぎると意外にも空腹を感じなくなっていくのだそうです。ところが、そのピークの次に空腹を覚えた時、もう一度それを乗り越えようとすると、気絶してしまったのだそうです。断食の期間に覚える二つ目の空腹感は、生命に関わる危険なサインなのだと教えてくれました。

イエスさまは危険な飢餓状態にありました。そこに誘惑する者、つまり悪魔が現れてイエスさまにささやきます。聖書には悪魔やサタンと呼ばれる者が登場して、誰かを誘惑するという記述があります。例えばヨブ記では信仰の人であるヨブから家族や財産、健康を奪って、それでも彼が神さまを信じるかどうか試そうとします。歴代誌ではダビデに現れ、イスラエルの人口を調べるように唆します。サタンは、目を付けた人を誘惑し、その人の信仰を試みるのです。

サタンは空腹のイエスさまを唆そうとします。「そんなに空腹なのならば、そこらに落ちている石をパンに変えて食べてはどうだ。お前が本当に神の子なら、それくらいのことはできるだろう。」

イエスさまは答えられます。

「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つひとつの言葉によって生きる』と聖書に書いてある。私はこの御言葉に従う。」

悪魔の最初の誘惑の本質は、神さまから与えられている御力を自分の欲求を満たすために用いるか否かにありました。神さまはイエスさまに御力を与えられましたが、それは病気や患いで苦しんでいる人の癒しのため、また悪霊に憑りつかれている人が解放されるため、重い罪を負わせられている人を自由にするためであって、御自身の肉体的な欲求を満たすためではないとして、この誘惑を退けられます。イエスさまの返事は申命記の引用です。イエスさまは苦しみの中にあっても聖書の御言葉に従う、神さまの御心を行うと宣言されたのです。

続いて悪魔はイエスさまを試みようと、イエスさまを都の神殿の屋根に立たせます。「神の子なら飛び降りたらどうだ。お前の好きな聖書には『天使たちがお前を守り、お前の足が石に打ち当たらないようにする』と書いてあるではないか」と、半ば挑発します。

確かに神さまはイエスさまを守られます。その時が来るまで、誰もイエスさまを傷付けられません。しかもこの時、多くの人の前で神殿の屋根から飛び降りたら、神さまによって守られていると人々に見せ付けられるでしょう。そうすれば、御自身が神さまの御子であり救い主であると明らかにできます。しかし、イエスさまはこの誘惑をも退けられます。

「あなたの神である主を試してはならない」

確かに神さまはイエスさまを愛し、守られますが、それを試すということはつまり、逆説的に神さまを疑うという意味でもあります。故意に危険を冒して神さまを試みてはならないのだとイエスさまは答えられました。

最後に悪魔はイエスさまを高い山に連れて行き、そこから世界中の国々と、その栄えている様子を見せ、自分を拝むならば、今見た全てを与えると言います。最後の誘惑は二重の誘惑です。普通の人であれば、繁栄する国々を与えられると言われれば得られるのは莫大な富や権力であると考えるでしょう。しかし、この言葉はイエスさまの耳には違った意味合いを持って聞こえてきます。

「私を拝むならば、十字架の苦しみなど味わわずとも、これら全ての人を救えるぞ」

もしも、十字架への道のりの苦しさを、そして死を味わうことなく世界を救えるとしたら、そちらの方が得であるはずです。「わざわざ苦しまなくても済むのだ。それで誰も損をしない。痛い思いをしなくてもお前の目的は果たされる。全ての人が救われるのだ。」とささやくのです。

これを聞いたイエスさまは悪魔を強く叱責なさいます。

「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」

救いの御業は神さまの御力によって、神さまの御心への服従を通してのみ実現するのです。他の方法では、同じ結果を得られるように見えたとしても、それは本当の救いとはなり得ないのです。それは一時しのぎに過ぎなかったり、別の苦しみや分断の原因となったりして、真の救いとはならないのです。だからイエスさまは徹底して、神さまの御心に従う、仮にそれが苦しい道のりであったとしても神さまと共に歩むと宣言なさったのです。

イエスさまは悪魔の誘惑に打ち勝たれました。私たちはこの御姿から何を受け取るべきでしょう。誘惑に陥らない強い意志を私たちも持つべきだと、この御言葉は教えているのでしょうか。私たちはまず、イエスさまが何を守り通されたかに目を向けるべきです。

断食の直前、イエスさまは神さまから祝福され、聖霊を注がれていました。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という神さまの御声を聞いておられます。イエスさまはこの御言葉を、この祝福を守られたのです。この子どもこそ御心を行う者であるという神さまからの期待を守り通されたのです。この祝福はイエスさまの上にだけ注がれているのではありません。私たち全ての被造物が頂いている祝福なのです。全ての被造物が、神さまによって「良いもの」として造られ、期待されているのです。私たちはイエスさまに倣い、この祝福を守るのです。

頂いた祝福を守り、御心を行うため、私たちはイエスさまの御姿に倣います。私たちは聖書の御言葉に従うのです。イエスさまのように、当意即妙に適切な聖句を引用する必要があるという意味ではありません。イエスさまが私たちに求められているのは、たった二つの掟です。神さまを愛し、全ての人を愛しなさい。私たちは何を行うにつけ、まず「これは愛だろうか。これは神さまへの愛となっているだろうか。これは全ての人への愛となっているだろうか。」と問い、神さまに祈るのです。私たちは普段、「我らを試みに合わせず悪より救いいだしたまえ。」と祈りますが、この悪とは艱難や苦痛であり、また悪意です。悪意こそ誘惑なのです。私たちが悪意に曝されないよう、また私たちの内に悪意が生まれないように守ってくださいと祈るのです。

御受難の直前、イエスさまは弟子たちに「誘惑に陥らないよう、目を覚まして祈りなさい」と諭されました。私たちは誘惑に弱い者です。気を抜くと祈りを忘れて眠りこけてしまいます。ついつい、心に生じる悪意になびいてしまいそうになります。そのような自分の姿に気付いた時、自分を嘆く必要はありません。そんな時、私たちはむしろ祈るべきなのです。どうか、イエスさまに倣う者としてください、私たちの内から悪意を取り除いてくださいと。

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