2024年2月25日
マタイによる福音書 9:13-41
「今は見える」
私たちは全ての人に神さまの目が注がれ、御手が伸べられていると信じていますが、そのように誰かから告げられたとしても、それをただちに自覚できるというわけではありません。私たち自身の信仰の歩み、信仰的な成長を振り返って見ても、神さまと人との関りについての理解は、折々の出来事を通して少しずつ深まっていくのだと気付かされるはずです。
ある日、イエスさまは生まれつき目の見えない人を見かけられました。弟子たちはイエスさまに、「この人の目が生まれつき見えないのは、誰が罪を犯したからですか。この人本人ですか、それとも両親ですか」と質問しました。随分と失礼な質問ですが、これが当時の一般的な認識だったのです。身体的な障害や病気は、その人やその人の祖先など、誰かの罪に対する報いとして起こると信じられていたのです。この質問に対してイエスさまは、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」と言われ、罪との関係を否定なさいました。
そして、地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目に塗り、シロアムの池で洗うようにと仰います。彼がイエスさまに言われた通り、シロアムの池に行って目を洗うと、それまで見えなかった目が見えるようになりました。喜びながら家に帰ると近所の人々は大変驚きました。中には別人ではないかと疑う人も出るほどでしたが、本人が間違いなく自分であると言うと、話題は「どのようにして見えるようになったのか」という経緯へと移ります。そこで彼は「イエスという人が土をこねて目に塗り、シロアムで洗えと言った。その通りにしたら見えるようになった」と答えます。人々は「そのイエスという人はどこに居るのか」と問いますが、シロアムに行くまでは目が見えなかった男はイエスさまの行く先を知りませんでした。
人々はこの男をファリサイ派の人々の前に連れて行きます。その目的は罪の赦しの宣言を受けさせるためだったのではないかと思われますが、予想に反して尋問が始まってしまいます。それと言うのも、イエスさまが癒しの業を行われたのが安息日だったからです。安息日にはいかなる労働も禁じられていました。イエスさまの癒しが、特に土をこねるという行為が労働にあたるのではないかと捉えられたのです。なんと男は宗教裁判に掛けられてしまったのです。
ファリサイ派の人々は事情聴取を行いました。男は近所の人々にした説明を繰り返します。ファリサイ派の人々の中で意見が別れました。ある人々は癒しの行為を労働と考え、イエスさまは律法に違反した、イエスさまは罪びとだ、律法に違反したのだから、神さまのもとから来た人であろうはずがないと主張します。別の人々は実際に目を見えるようにしたという事実に注目して、イエスさまが罪びとであったならばそんなことが出来るはずがないと主張します。侃々諤々の議論の末にファリサイ派の人々は、男に確認します。「お前はあの人をどう思っているのか」。男は答えます。「あの方は預言者です。」
ここで男の内面に生じた変化に気付かされます。男は当初、イエスさまに関心を持っていませんでした。自分の身に起きた出来事の方が大きな衝撃を持っていたからかもしれませんが、近所の人々にイエスさまの所在を問われても「知らない」と答えるほどに、イエスさま御本人については無関心だったのです。それが今は「預言者です。」と、つまり神さまから遣わされた方であると認識し始めています。預言者は神さまが御言葉を告げる者として選び、建てられた者です。その言葉はユダヤの民全体に関係しますから、「預言者です」という答えから、彼がイエスさまを自分と関係のある方だと考え始めたと理解できます。
変化はもう一つありました。それは、彼を取り囲んでいる人々の心に起きた変化です。ファリサイ派の人々には二つの意見があったはずです。イエスさまを罪びとだと考える人々と、罪は無いのではないかと考える人々の二つのグループがあったはずなのに、18節では「ユダヤ人たちは、目が見えなかったのに見えるようになったということを信じなかった」とあります。イエスさまへの疑いという一つの色で全体が染まってしまったのです。最初はある種の中立性がこの人々にはありましたが、今ではそれが失われ、完全に疑いの一色になってしまったのです。
人々は、そもそもこの話自体が捏造なのではないかと疑い、目が見えるようになった人の両親を呼び出して尋問します。「本当にあなたがたの息子は生まれつき目が見えなかったのか。だったら、なぜ今は見えるのか。」
両親は自分の知っている事実だけを答えます。そして、目が見えるようになった経緯、特に誰が見えるようにしたのかについては知らないと答えます。確かに両親は話を聞いただけなのでイエスさまを知らないのですが、下手なことを言って村八分にされてはかなわないという恐怖が彼らの口を閉ざしたのです。両親は肌で感じていました。自分たちを尋問している人たちには既に中立性が失われ、この人たちの気に入らないことを言ってしまうと本当に追放されてしまう。そんな逆風の中で息子の身に起きた出来事について迂闊に口を開くわけにはいかないと考えたのです。
両親たちからは何も得られないと悟った尋問者たちは、再度男を呼び出して問います。「神の前で正直に答えなさい」と付け足しています。「誠実に」という意味合いですが、この場合の誠実とは自分たちの考えに同調する意見や姿勢でしかありません。彼がその体験と、それを通して得た思いをありのままに答えたとしても、それが自分たちの考えと一致しなければ「誠実ではない、正直ではない」と決め付けるのです。その姿勢は「あの者が罪ある人間だと知っているのだ」という、イエスさまを決め付ける言葉に如実に表れています。
度重なる尋問に対して男はもうまともに答えようとはしません。完全に呆れているのです。その一方で、男の心に更なる変化が起きます。
男は尋問者たちに逆に質問をします。「あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」尋問を受けるうちに、彼はイエスさまの弟子になりたいと思い始めていたのです。大変な皮肉と言うべきでしょうか、ユダヤ人たちはこの人に罪を突き付けました。目が見えなかった時には「あれは罪の故に目が見えないのだ」と罪を突き付け、見えるようになるとイエスさまの御業を罪の行為ではないかと疑い、男に罪を突き付けました。男は当初、自分の身に起きた癒しの出来事、つまり実際上の苦痛が取り去られるという客観的な事実にしか注目していませんでしたが、突き付けられ続ける罪との対比を通して、その事実の背後に何かが起こっていると気付かされたのです。その何かとは、罪からの解放です。イエスさまとの関係が自分を罪から解放し、この関係をこれからも持ち続けたい、イエスさまと一緒に生きたいと願い始めたのです。
9章全体の主題は「罪とは何か」という問題です。目の見えない男はイエスさまによって罪を否定され、罪から解放されました。自分の身に起きた出来事の本質に気付いた時、男はイエスさまを信じる者となりました。一方で、目が見えるはずのファリサイ派の人々、ユダヤ人たちはイエスさまを正しく見ようとはしませんでした。イエスさまのなされた偉大な御業を正しく見ようとせず、かえってそれを罪ありと決め付けてかかりました。彼らはイエスさまとの関係を否定しています。罪とは、イエスさまとの関係が結ばれていない状態、そしてイエスさまを通して神さまとの関係が結ばれていない状態を指しているのです。自分の身に神さまの不思議な働きかけが少しでも感じられているならば、それは間違いなく、神さまの御声です。あなたを愛していると語り掛ける神さまの御声です。そして、それは神さまからの招きです。信じる者となれという招きです。
男は神さまの招く声に気付きました。そしてついにイエスさまについての告白が彼の口から生まれます。30節から33節は「この方こそ罪の無い方であり、神さまの御許から来られた方である」という、信仰告白です。
これを聞いたユダヤ人たちは彼を追放します。世は彼を排除しました。世の常識とは合わないと考え、彼を排除しました。しかし、その常識の正体を私たちは既に見ています。それは単なる決め付けです。彼はかえってせいせいしたかもしれませんが、孤独になってしまいました。そんな彼を訪れる方が居られました。イエスさまが再び彼に会いに来られたのです。そして問われます。「人の子を信じるか」。彼は答えます。「その方を信じたいのです。」ここでは直ちに「信じる」とは答えていません。信じたいと願っているだけなのですが、その願いでイエスさまには充分なのです。その願いをイエスさまは聞き入れ、叶えてくださるのです。信じて良いのかな…信じて良いのです。信じられるようにしてくださるのです。自分には必要ない、自分には関係ないと決め付けてしまう、それこそが罪なのです。迷いながらでも良いのです。この方の後をついて歩きたいと願うならば、イエスさまは私たちの手を取り、一緒に歩いて下さいます。私たちはこれからも迷うでしょう。それでも良いのです。共に歩んでくださるイエスさまが希望を示して下さるのですから。
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