降誕節第6主日礼拝説教

2024年2月4日

ヨハネによる福音書 5:1-18

「願う人、癒す主」

今日、イエスさまは奇跡を行われました。長年病気に苦しんでいた人を癒されました。しかし、そこで交わされた会話は噛み合っていません。なぜそのようなことが起きたのか、聖書の御言葉を注意深く見てみましょう。

その日はユダヤ人にとって大切な祭りの日でした。ユダヤの大きな祭りとしては、過越しの祭り、仮庵の祭り、五旬祭がありますが、そのどれにあたるのかについて、ヨハネは記していません。ただ、きっとエルサレムの町には多くの人が集まっていただろうと想像できます。

エルサレムをぐるっと囲む城壁のうちの北の壁に羊の門があります。神殿もまたエルサレムの町の北側にありますので、外部から町に入る人にとっては、とても便利な場所にある門だったでしょう。そのそばに「ベトザタ」と呼ばれる池があります。池と言っても自然の池ではなく、屋根付きの回廊で囲まれた、大きな貯水槽と言いますか、プールのようなものです。

この池を囲む回廊には何らかの身体的な理由で、一般的な生活を送る事のかなわない人々が集まっていました。この池には「普段は動かない水面が波打つ時、そこに飛び込む最初の者は、どのような病気を患っていたとしても癒される」という伝承があったからです。医者にも見放された人々は、ここに来て水面が動く時をじっと見守りながら待っていたのです。

そんな中に、38年間も病気で苦しんでいる人がいました。人称代名詞が「彼」ですので、たぶん男性です。イエスさまは彼に気付かれました。そして、彼の苦しみを理解されました。そして問われます。

「良くなりたいか。」

病気が癒されて、健康になることを望むかと問われたのです。彼は答えます。

「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」

イエスさまは、「病を癒されたいと願っているのか。」と、この人の意志を尋ねられました。それに対する答えは、「はい」か「いいえ」であるはずですが、彼の答えは「池に入ることができずにいる」という内容でした。この会話は、問いと応答としては成立していません。対話が成り立っていないのです。

この対話が成り立たなくなった理由は、この男が「ベトザタの池」の伝承に囚われるあまり、「良くなるには池に飛び込まなくてはならない。」と思い込んでいるからです。このために、イエスさまの質問も「池に飛び込みたいのか」という意味として理解してしまったのです。イエスさまの御言葉を、そのままに理解できなくなっているのです。

医者からも見捨てられてしまった、人間に考え得る方法では良くなる見込みが無いと宣告されてしまった人が、超越的な何かにすがりたくなるのも致し方無いと思います。ベトザタの池の周りに集まっている人々とは、そのような人々の群れです。

彼らは「水が動く時を見逃すまい」と水面を一日中見詰めていますが、これは同時に、水面を見続けるということ以外に何も出来なくなっているとも言えるでしょう。「癒しの伝承」は、今や苦しむ人たちを縛り付けてしまっています。長年、ただ水面を見続けてきた男には、伝承に頼る以外の可能性を見付け出そうという自由な発想もありません。今語り掛けられた御言葉を文字通りに理解するということすら妨げられています。

「伝承」が心を縛り付けているので、イエスさまとの関係が、イエスさまは目の前に居られるというのに、妨げられているのです。この彼に対してイエスさまは命じられます。

「起きなさい、あなたの寝床を担ぎなさい。そして歩きなさい。」

少し突飛なご命令のようにも思えます。手順をすっ飛ばしてしまっているように思えるからです。まず病を癒されて、それから「起きなさい」なら分かるのですが、いきなり「起きなさい」では、突然に過ぎるのです。しかし、イエスさまには確信がありました。この人を動けなくしている問題は既に根本的な所で解決されていると確信され、それが今、宣言されたのです。

この人は二つの事柄によって縛り付けられていました。一つ目は先ほども申し上げました、伝承です。「ベトザタの池伝承」によらなければ、癒されることは無いという硬直した思考が彼を縛り付けていました。それが今、解放されました。もう一つはユダヤ人の持つ「病の原因」への解釈です。当時のユダヤ人は、病や身体的な不自由の原因は、その人やその人の先祖が犯した罪であって、病や身体的な不自由は罪への報いとしてその人に現れているのだと考えていました。

ベトザタの池の前に横たわるこの男も、自分の体が自由ではない理由を、罪に求めていただろうと推測できます。それが先祖の罪なのか、彼自身の罪なのかは分かりませんが、病は彼に身体的な苦痛だけではなく、「罪」としてのしかかり、心にも苦しみを与え続けてきました。イエスさまは、その「罪の苦しみ」からも彼を解放されたのです。それなのに、彼の周りに居たユダヤ人たちは彼に新たな罪を加えて、またも苦しめようとします。「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。」

読んでいて、このユダヤ人たちに対する怒りすら覚えさせる言葉です。なぜ癒されたことを喜んでやれないのか。なぜまずおめでとうと言ってやれないのか。なぜ今、罪を加えようとするのか。確かに律法では許されていないことなのかもしれません。しかし、長年の苦しみから解放されたことを一緒に喜ぶことが、なぜ出来ないのかと強い不満を、不快感を覚えます。

癒された男は恐れを抱いたのかもしれません。この新たな罪によって、また苦しむことになるのかもしれない。だから、告発に対して「いや、命令されてやったのだ。」と答えたのかもしれません。確かにそれは命令されてやったことでしたので、彼は間違ったことを言っているわけではありません。

もっとも、この時は自分を癒したのが誰であったのかを知りませんでしたから、彼はイエスさまの名前を出すことはできませんでした。しかし、しばらく経った後にイエスさまは彼と再会なさいます。この時には彼は、自分を治したのがイエスさまであると、周囲の人々に知らせます。するとユダヤ人たちはイエスさまを迫害し、苦しめはじめました。何故ならば、病気を癒すこともまた、律法が安息日に行うことを禁じている労働にあたると考えていたからです。

これに対してイエスさまは反論なさいます。

「神さまは安息日である今も働いておられる。だから私も神さまと同じようにするのだ。」

ユダヤ人たちは何故イエスさまが癒しを行われたことを怒ったでしょうか。それは、癒しの業がどのようなことであるのかということを理解せずに、極めて短絡的にイエスさまのなさったことを律法の禁止事項と結び付けて考えたからです。

聖書は、つまり律法は根本的なところでは私たちに「愛を行え」と命じていますが、このユダヤ人たちは「安息日に禁じられていること」「罪の定め」という枝葉の部分に縛られて、根本的なことに気付けなくなっているのです。彼らは律法に縛られているのです。

彼らは、罪を避けることで正しく生きられる。罪に苦しまずに生きられると考えていました。ですが、イエスさまのお考えになる「罪」と、彼らが考える「罪」とには隔たりがあるのです。

イエスさまは病を癒された男に再会なさった時、こう仰いました。

「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」

このイエスさまの御言葉にある「罪」という言葉を、ユダヤ人たちの持っている「罪」への観念のように「律法違反」と解釈すると、それはとても恐ろしい意味になってしまいます。「これからは律法から一歩も逸脱してはならない、決して罪を犯してはならない。」という強迫の言葉になってしまいます。しかし、そもそもイエスさまの考えておられる罪とは一言で言うと「神さまとの関係性から離れてしまうこと」に他なりません。それに、ご自分との関係という意味合いも込めた御言葉を、ヨハネによる福音書16章に見付けることができます。16章9節を読んでみましょう。

「罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと。」

これは、「いつかおいでになる弁護者が罪を明らかにする時、それをどのように示されるのか」ということについて述べられた御言葉です。罪とは、イエスさまを信じないこと、神さまから離れてしまうことなのです。

病の男に「もう犯してはならない」と禁じられた罪とは、一体何でしょうか。

彼は「ベトザタの池」の伝承にすがる余り、目の前で問われるイエスさまの御言葉を、文字通りに理解出来ませんでした。彼の心はずっと、池の水面にあったのです。イエスさまの方には全然向いていなかったのです。ユダヤ人たちはどうでしょう。彼らの心は律法の、それも重箱の隅のところに囚われていて、神さま御教えに向いていません。だから、病の男とイエスさまの会話も、ユダヤ人たちとイエスさまとの議論も全く噛み合っていないのです。イエスさまとの関係が成立していないのです。

心が苦しみに閉ざされた時、私たちは神さまを見上げられなくなってしまいます。せっかくイエスさまが目の前に来てくださって、話しかけてくださっているのに、その御言葉を正しく聞けなくなってしまうのです。私たちは、苦しみを避けようとするあまり、枝葉に囚われて、神さまが何よりもまず大切なこととして私たちに求めておられることを忘れてしまうことがあります。しかし、それでは根っこの部分で足を踏み外してしまうのです。

私たちに何が求められているのでしょう。苦しい時にこそ、イエスさまの存在を、温もりを感じることです。

イエスさまは今日、どのように病気の男と関わられたでしょうか。イエスさまはまず、彼を理解なさいました。そして問いかけられました。

イエスさまは、私たちを良く御存知です。そして、私たちの願いを聞いてくださいます。決して無視なさいません。だから私たちは、自分が何を願っているのかを、ありのままをイエスさまにお答えすれば良いのです。その時、イエスさまと私たちのあるべき関係が、神さまと私たちのあるべき関係が浮かび上がってくるのです。

私たちは何によってイエスさまに、神さまに自分の願いをお伝えしますか。祈りによってです。だから私たちは、何をするにもまず祈りから始めるのです。祈りによって、願いを聞いてもらうのです。

私たちの願いを、今この時も聞いていただきましょう。

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