受難節第4主日礼拝説教

2024年3月10日

ヨハネによる福音書 12:1-8

「ナルドの香油」

今、私たちの目の前には、迫りくる御苦難、それも避けることのかなわない御苦しみへの不安を抱いた方が居られます。私たちの主、イエスさまです。

ヨハネによる福音書では明確な御受難が予告されていません。それが共観福音書との違いではありますが、それでもイエスさまはご自身がどのような最期を迎えられるのかをご存知です。例えば2章では神殿を3日で建て直すと宣言なさっていますが、これは御受難の後の御復活の事を仰っていますし、また8章では「私は去っていく」と、弟子たちとの別れを予告されています。このことから、ご自身の最期のことをイエスさまは良くご存知であったと考えて良いと思います。

過越しの祭りを、つまりご受難を六日後に控えて、イエスさまはベタニアにお越しになりました。これは、エルサレムから東へ数キロほど行った所にある村で、マルタとマリア、そしてラザロの兄弟たちが住んでいました。この家族とイエスさまとの間には、たぶん私たちでは想像も付かないような心の繋がりがありました。少し前、ラザロが病気で死んでしまった時にイエスさまが彼を生き返らせるという奇蹟を行われたからです。この奇蹟を行われたためにイエスさまはユダヤ人たちから命を狙われるようになってしまい、ベタニアを去り、エフライムに退かれましたが、この一家にとってイエスさまは大切な人となりました。

ベタニアの村はエフライムからエルサレムに至る道の途中にありましたから、過ぎ越し祭のために都を訪れるイエスさまは、当然この村を通ります。このベタニアは過越しの祭りの期間には宿を取る巡礼者で一杯になりましたから、イエスさまが宿を求めてマルタとマリア、ラザロの家を訪れたことも、極めて自然な運びでした。

三兄弟にとっては家族の命の恩人が訪れた訳ですから、みな大喜びで迎え入れ、一家を挙げてイエスさまを歓迎します。もちろん同行している弟子たちも含めて、大歓迎です。用意できる限りの御馳走が用意され、振舞われます。ラザロはホストとして食卓に就き、マルタとマリアの姉妹は料理を作り食卓に運んでいます。

一同が食事をしていると、そこにマリアが入って来ました。手には小さな壺がありました。1リトラと言いますから、おおよそ360ccの油が入るくらいの壺です。清涼飲料水のアルミ缶くらいの大きさの壺です。マリアはイエスさまの足元に膝を付き、壺の蓋を開けて中に入っていたナルドの香油をイエスさまの御足に塗り、また御足を自分の髪で拭いました。この香油は大変香り高い油でしたので、部屋いっぱいに良い香りが広がりました。

この様子を見て怒ったのがイスカリオテのユダです。というのも、これほどの量のナルドの香油であれば、売れば300デナリオン、当時の労働者の賃金で考えるならば、300日分の日当に相当する金額、単純に見積もっても今の日本円にして250万円以上になるはずだったからです。それほどの高価な油がイエスさまの御足に注がれた。これはユダの目には浪費としか映りませんでした。

ユダはマリアの行為を批判します。

「なぜ、この香油を300デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」

ユダが怒った理由を福音書記者ヨハネは6節に記しています。彼は弟子グループの会計係として皆のお金を預かっていたのですが、その一部を着服していたからだと言うのです。

この6節の記述をもって、ユダが怒ったのは300デナリオンの一部を着服する機会を失ったからだと解釈する人たちがいます。つまり、マリアがこの香油を現金化して献金してくれたならば、貧しい人々にそれを分け与え、ユダもそのおこぼれに与ることができたのに、それが出来なかったから怒っているのだと。ユダが横領していたのは事実なのでしょう。しかし、ユダの心の動きは、それだけではなかっただろうと私は考えます。その理由は、ここでマリアが注いだのが他ならぬナルドの香油であったということと、イエスさまの御足を髪の毛で拭ったということの意味への考察が不十分であると考えるからです。

ナルドの香油、あるいはナルドという言葉は、ヨハネによる福音書のこの箇所の他に、マタイによる福音書と、旧約聖書のある書物、この三つの書物にしか出てきません。問題を解く鍵はその三つ目、旧約聖書の書物にあります。その書物は雅歌です。

雅歌は聖書の中では異色の書物です。そこには男女の恋を描いた詩、歌が収められています。その内容は極めて官能的で、部分的には読んでいて赤面してしまいそうなほどです。ナルドの香油、あるいはナルドはここで、女性の女性らしさの極みを象徴するものとして登場します。

このナルドの香油をマリアはイエスさまの御足に塗り、そして髪で拭いました。髪もまた、当時にあっては女性らしさの象徴でした。つまりマリアは女性としての自分自身をイエスさまに捧げたのです。これを恋愛的な、あるいは性愛的な意味合いで理解するのは、少し先鋭的に過ぎると思います。ここでマリアがイエスさまに伝えたかったのは、「自らの全てを差し出すことができるほどに、あなたを愛しています。」という気持ちです。

マリアはひたすらに、全人格をもってイエスさまを愛しました。

イエスさまを愛するという気持ちを、これほどに鮮やかに表現した人物を私は他に知りません。また男性には残念ながらこれほどの表現はできないでしょう。方法が無いからです。それほどの愛を、命がけの愛をここで示したのです。マリアは全てを尽くして主イエスを愛しました。

マリアの愛の大きさを、ナルドの香油の価格に求める解釈者が居ますが、その人たちに聞きたい。あなたの愛は金に換算することができるのか。その人たちは野暮だと思います。愛の大きさを数字に置き換えることなど出来るわけがありません。マリアは自分自身を、全人格を投げうってイエスさまを愛することが出来た。その象徴がナルドの香油でした。

ユダは、香油を注ぐというマリアの行為に秘められた思いに気付きました。そして、自分と比べ、マリアに嫉妬したのです。これほどの愛をイエスさまに向けることが出来ない。ここまでひたむきになれない。それが悔しくて八つ当たりをしたのです。イエスさまはユダの気持ちを理解しておられました。その上でユダを受け入れられました。嫉妬を誤魔化すユダの言葉を、イエスさまは敢えて正面から受け止めることで、額面通りの言葉として受け止めることでユダを受け入れられたのです。そして言われます。

「多くの貧しい人々を思うあなたの気持ちは良く分かる。だが、この人は今しかできないことをしてくれたのだ。そしてそれは、後になって悔いることの無いように、私があなた方のもとを去った後になって悔いることの無いように、今全力で愛してくれたということなのだ。」

イエスさまが十字架の上で息を引き取られた後、十字架から降ろされたイエスさまの御遺体を、アリマタヤのヨセフとニコデモが香料を添えた亜麻布で包みました。これは亡くなった人のためにする弔いの行為でした。亡くなった人への、愛情表現でした。今、マリアはそれを先取りしました。今、イエスさまが生きておられるうちに全力をもって愛したのです。

以前、あるお坊さんが教えてくれました。「家族を喪った人が後悔をすることがある。その多くは、『もっと良くしてあげれば良かった』という後悔だ。この事に遺族は苦しむのだ。でも、その苦しみは、それほどにその人を愛しているという証拠なのだ。愛しているからこそ、もっと愛を注ぎたかったという思いが残るのだ。それほどに愛されて送られた人は幸いなのだ。その人はきっと満足している。」

ユダは今、身もだえするほどに後悔していることでしょう。ユダもまたイエスさまを愛していたはずなのに、愛を貫けない自分自身を、マリアの姿を通して見てしまったからです。その先にある気持ち、さらに深い所にあるユダの心理がどのようだったかまでは、私には推し量れません。ここで生き方を変えることも出来なくは無かったはずです。残された日々に、イエスさまを愛することだって出来なくは無かったはずです。それなのに、ユダはイエスさまを裏切った。もしかすると、この時、ユダの心が砕けてしまったのかもしれません。ユダの裏切りは神さまの御計画の内にありました。ユダの苦しみは、神さまが御心を行うために用いられたのです。であるならば、私にはユダを憎むことが出来ません。ユダを悪者にして一件落着とは出来ないのです。皆さんもできないはずです。ユダの哀れさを知ってしまったからです。

私たちとユダと、どう違うのか。根本のところでは同じです。全力で愛することが出来なかった。同じなのです。違いがあるとすれば、私たちは既に十字架の出来事を、御復活を見た、イエスさまの成し遂げられた、限りなく偉大な愛の御業を見たという点にあります。十字架を見上げる私たちには、新しい生き方が示されています。愛してくださったイエスさまを私たちも全力で愛する、イエスさまのなさったように愛する。それが私たちの新しい生き方です。

マリアは全身全霊でイエスさまを愛しました。大きな不安の中に在るはずのイエスさまがユダを憐れまれ、愛されました。大いなる愛が部屋を満たします。香油の香りが部屋を満たすように。

今、私たちは全身全霊をもってイエスさまを愛したいと願います。そして隣にいる人を愛したい、私たちを傷付ける者をも愛したいと願います。

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