2024年3月17日
ヨハネによる福音書 12:20-36
「一粒の麦」
過ぎ越しの祭りが始まりました。この祭りは1週間に及び、この期間中にユダヤの全土から大勢の人々が神殿で礼拝をするために集まって来ました。都を訪れたのはユダヤ人だけではありませんでした。中には外国人も居ました。彼らは祭りを見物したり、都を観光したりしようとして来たわけではありません。外国人の中にも聖書の教えに触れてこれを尊び、聖書によって伝えられる神さまを信じる人々が居ましたし、ユダヤ教へ改宗する者も居ました。そんな人々の中の何人かが、イエスさまに会いたいと願って、フィリポに仲介を依頼しました。
彼らはフィリポに対して、とても遜った態度を示します。新共同訳聖書では「お願いです」と訳されていますが、原典では“キリエ”と呼び掛けています。文字通りに訳するならば、「御主人さま」という呼び掛けです。先週まで礼拝の冒頭の賛美歌でわたしたちは「キリエ・エレイソン」、つまり「主よ憐れんでください」と歌っていましたが、このキリエという呼び掛けこそ、ギリシア人たちがフィリポに向かって言った言葉です。フィリポは驚いたかもしれません。何故ならば、当時の地中海世界にあってはギリシアこそ文明の頂点であり、ギリシア人やローマ人は自分たち以外を文化的に劣る連中と信じて疑わなかったからです。フィリポのもとに来たギリシア人たちはイエスさまを尊敬しており、その尊敬の想いは弟子たちへの態度にも表れていたのでしょう。
フィリポはアンデレに相談しました。この二人の名前は、実はギリシア語です。フィリポは「馬を愛する者」という意味の名前で、アンデレは「男らしい」と言う意味の名前です。二人は何等かの形で、ギリシア人との交流があったのではないかと思われます。その上、ヨハネによる福音書において、フィリポはナタナエルをイエスさまに引き合わせる仲立ちをした人物として描かれており、アンデレはシモン・ペトロをイエスさまに引き合わせていますから、フィリポはイエスさまへの面会を希望する人、特にギリシア人たちにとって、お願いをしやすい人物であり、彼は同じような立場のアンデレに相談をしたのでしょう。二人は訪問者たちを好意的に迎え入れ、何とかイエスさまに会わせてあげたいと思いました。そこで、連れ立ってイエスさまのそばに行き、事情を説明します。するとイエスさまは説教を始められました。唐突であるように思えますが、多分二人の弟子たちの後をついて来ていたギリシア人を切っ掛けにして、そこに居た全員に教えを説かれたのです。
「人の子が栄光を受ける時が来た」と、その説教は始められました。ヨハネによる福音書でイエスさまはこれまで繰り返し、「わたしの時はまだ来ていない」とおっしゃってきました。カナの結婚式の時には酒が無くなりそうだと言う母マリアに対して「わたしの時は、まだ来ていない」と答えられました。兄弟たちに「自分を世に現わせ」と言われた時にもやはり、「わたしの時はまだ来ていない」と答えられました。それが今、「時が来た」という言葉で説教を始められたのですから、この切り出し方は特にいつも一緒に旅をしてきた弟子たちにとっては意外だったでしょう。
それは別にギリシア人たちが来たから「栄光を受ける時が来た」という意味ではありません。イエスさまにとっての栄光の時とは、御受難の時であって、人々に踏みつけられる時、死の時が近付いたという意味です。麦が土に落ちるように、御自身も倒れ伏す。しかし、その種は土の中から芽を出して伸び、ついには人々の命を養う糧となる。十字架の上で捧げられるイエスさまの命を通して、人々は永遠の命を得るのだと教えられるのです。
栄光と言うと、業績によって脚光を浴びるようなイメージを持ちますが、イエスさまにとっての栄光は、人々に見捨てられ、嘲られつつ傷付き、孤独の内で迎える死でした。イエスさま個人のことを考えると、それは栄光とは言えないように思えますが、イエスさまは父の御姿を御覧になっています。イエスさまが土に落ちる時、対照的に父の御姿が私たちの目に明らかにされるのです。イエスさまは父の御心を、全ての人を愛し、救いたいと願っておられる神さまの御心を私たちに示すため、救いの御業を完成させるために、御自身は惨めな死を受けなければならなかったのです。
イエスさまは決して超然とした姿勢で御自身の死を見詰めておられたわけではありません。イエスさまは完全な人間として受肉されたのですから、私たちと同じように我が身を大切にしたいと思われますし、肉体的にも精神的にも苦しみを味わわれます。強い不安を覚えられたイエスさまは、心の内にある苦しみを言葉にして露わにされます。ただ、強い不安の中にあってもイエスさまは神さまを信じ、全てを委ねます。
イエスさま個人のことを思うと、私はイエスさまに「これは私の役割じゃない、私はこんなのイヤだ」と言って逃げていただきたいとすら思います。もっとも、こんなことをイエスさまに申し上げたら、「あなたは神のことを思わず、人のことを思っている。」と叱られてしまうでしょう。まさにその通りなのです。そして自分自身を振り返った時に、今日イエスさまが教えてくださったように自分の思いを脇に置いて、自分の為すべきことを為せるか、時折不安になるのです。
私たちは神さまから信頼されて、この地上での働きを任されています。神さまに期待されているのです。その期待に、力の及ぶ限り応えたいと願っているのですが、投げ出したくなるような仕事も時にはあります。私自身、「ちょっと引き受けたくないなぁ」と思う時がちょいちょいあります。徒労感を覚えざるを得ない時もあります。「もう好きにしろよ」と言いたくもなります。しかし、それは神さまにお仕えする者のあるべき姿では無いと考えるから、自分の思いは脇に置いて、任された仕事に従うのです。
イエスさまは、本当は「イヤだ」とおっしゃりたかったでしょう。それでも、イエスさまは徹頭徹尾神さまに従順でした。そのイエスさまが御自身に倣えと仰います。ではイエスさまは私たちに何をせよと望んでおられるのでしょうか。私たちが互いに愛し合うこと、神さまを愛し、自分を愛し、隣人を愛する。それだけの事と言えば、それだけの事を求めておられるのです。
隣人のために、ほんの一瞬でも良いから祈って、手を差し伸べる。祈るうちに神さまは私たちを強め、為すべきことをなさせ、為すべきでないことを遠ざけてくださいます。毎日の生活を祈りつつ送る、祈りは私たちにとって欠くべからざる営みなのです。
来週は教会総会です。2024年度の秦野教会の伝道・牧会をどのように営むのか、神さまの期待にどう応えるのかを決める大切な会議です。神さまの導きを求めて祈りつつ備えましょう。
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