2024年3月24日 ヨハネによる福音書 18:1-11
「十字架への道のり」
イエスさまが逮捕される場面が読まれました。イエスさまは一体、どのような表情でこの時を迎えられたのでしょう。穏やかなお顔だったのではないかと私は想像します。何故ならば、全てはイエスさまの御心の通りに運んでいたからです。御受難を前にイエスさまは心を騒がせられました。それは先週読まれた聖書の御言葉、ヨハネによる福音書第12章において伝えられています。しかし、苦しみを神さまに打ち明け、それでもなお神さまの御心がなされるようにと祈られた後は、御自身のことでは悩まれなくなりました。その時から後、心を騒がせられたのはただ、ユダのためだけでした。
ユダが去り、弟子たちのために祈られた後、イエスさまは都の外へ出て行かれました。都の城門を出るとキドロンの谷がありますが、谷を越えた向こう側にはオリーブ山があります。イエスさまが目指したのは、オリーブ山の中腹にある庭園でした。イエスさまはこれまでも度々、お祈りをするために弟子たちと一緒にこの庭園を訪れました。もちろん、その弟子たちの中にはユダも居ましたので、彼もこの場所を良く知っています。ユダは、イエスさまがどのような時にここを使われるかも知っています。逆に、イエスさまも御自分を捕えようとする人々をユダがここに連れて来るだろうことも予想なさったはずですが、敢えて弟子たちを連れてここにおいでになりました。
しばらくすると案の定、ユダが兵士たちと下役たちを連れて来ました。兵士たちとはローマの兵士たちです。また下役たちは祭司長やファリサイ派の人々の部下です。祭司長やファリサイ派の人々はサンヘドリンという、当時のユダヤを支配する統治機構であり、また最高法院でもある機関のメンバーでした。世の中の力ある人々が全てイエスさまを敵視し、捕らえに来たのです。
彼らは手に手に松明や灯りを持っていました。晩餐の後の出来事ですので、夜ではありますが、この日は満月に近いほど月が輝いていましたから、そこまで灯りを必要としていたわけではありません。捕り手たちはイエスさまを決して逃すまいと、強い決意をもってここに来ていました。
イエスさまは何もかもを御存知でした。ユダが裏切ったこと、ユダヤの権力者たちがイエスさまを裁判にかけようとしていること、その裁判は出来レースで、何が何でも死刑にされてしまうこと、全てを御存知でした。イエスさまは捕り手たちに「誰を探しているのか」と問いかけます。彼らが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスさまは「わたしである」と、自ら進み出て名乗られます。何の迷いも不安も感じられません。このような場面では、実力を持つ者、つまり捕り手たちやその指揮官が主導権を持ちそうなものですが、イエスさまは静かな雰囲気によって、自然とこの場の主導権を取られます。捕り手の先に立って案内して来たユダも、いつの間にか人々と共にたたずむだけになっています。誰もイエスさまの言葉を遮りません。逮捕しに来たはずの捕り手たちもイエスさまに手を掛けようとはしません。
イエスさまは再び「私である」と言われました。日本語では語順の関係で分かりづらいのですが、ヨハネによる福音書においてイエスさまは、この「私である」という言葉で7回にわたり御自身を人々に示されました。それは、「わたしは命のパンである」「わたしは世の光である」「わたしは羊の門である」「わたしはよい羊飼いである」「わたしはよみがえりであり命である」「わたしは真のぶどうの樹である」「わたしは道であり真理であり命である」との御言葉です。これらの御言葉は、例えば英語であれば、“I am the bread of life.“や“I am the light of the world.”のように“I am”、つまり「私である」で始まります。これら7つの御言葉は、イエスさまの本質を啓示する御言葉でした。そして、これらに共通する「私である」という言葉の原型は出エジプト記にまで遡ります。神さまがモーセを召し出された際に「私はある」と名乗られましたが、それと同じ名前をイエスさまは名乗られたのです。これによって、イエスさまは今起ころうとしていること、これから起きることが世の支配者の思惑によってではなく、神さまの御心によって実現するのだと示し、誰がこの場の支配者であるかを明らかにされたのです。
捕り手たちは思わず後ずさりし、倒れてしまいました。自分たちの無力を無意識のうちに感じたのでしょう。彼らは言わばイエスさまの死を象徴する者たちです。その彼らが今、イエスさまの前に額づいています。死は、イエスさまを消し去る力を持っていません。イエスさまの口を閉ざす力を持っていません。何故ならば、イエスさまは父なる神さまの御力によって立っておられるからです。死は最早、イエスさまの御前にあって膝を折るしか無いのです。
イエスさまは重ねて「誰を探しているのか」と問われます。捕り手は再び、「ナザレのイエスだ」と答えました。イエスさまはまた、静かに返事をなさいました。そして、弟子たちを無事に去らせるよう、捕り手たちに命じます。捕り手たちは物々しい武器を持っていましたが、そんなものはイエスさまの静かな御力の前には無力でした。イエスさまを守らなければならないという強い思いに駆られたペトロが捕り手の一人に斬りかかり、耳を切り落としてしまいましたが、イエスさまはペトロを止めて諭されます。イエスさまは御受難を神さまが与えてくださった杯であると理解し、その杯を飲み干されなければならないと仰います。これは決意というほどに固い意志ではありません。イエスさまは当然のこととして、静かにこれを受け容れておられます。共観福音書では、弟子たちは逃げ出したと記されていますが、ヨハネによる福音書ではそのようには描かれていません。イエスさまは静かに、彼らを去らせられました。それは「私をお遣わしになった方の御心とは、私に与えてくださった人を、私が一人も失うことなく、終わりの日に復活させることである。」、また「私は彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった聖名によって彼らを守りました」という御言葉が成就されるためでした。弟子たちは今、イエスさまの御前から去りますが、彼らは後に永遠の命を担う共同体を建てる者として世に遣わされたのです。
苦い杯は、世に対する敗北のしるしではありません。神さまの勝利のしるしです。
私たちが仰ぎ見、迎え入れるイエスさまは、静かにその杯を飲み干されました。イエスさまは、このように静かな力に満ちた方なのです。
この時、剣に頼ろうとしたペトロは、まだイエスさまを充分に理解できていません。剣を振り回して息巻いているペトロは、後にイエスさまを三度にわたって否定し、自分の無力さと惨めさを思い知らされます。無力な私たちが世の力に打ち勝たなければならないのであれば、私たちは威力によって世を屈服させようとするのではなく、イエスさまのなさったように神さまへの信頼によってそれを為すべきなのだと思います。そして私たちの求める勝利とは、誰かを傷付けて得る勝利ではありません。誰もが復活のイエスさまと出会い、その愛への招きに応じ、共に食卓を囲む。これこそが私たちの求める勝利です。
イエスさまは、悪意を持って迫る人々にも静かに応じ、御自身を明らかにされました。そこに真の力がありました。イエスさまは、静かに弟子たちを派遣されました。弟子たちの目には、静かな力に満ちたイエスさまの御姿が残っていたはずです。私たちはの弟子たちの末に連なるものです。だから、私たちもまた、力に満ちたイエスさまを思い浮かべつつ、勝利を目指して歩むのです。
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