受難節第3主日礼拝説教

2024年3月3日

ヨハネによる福音書 6:60-71

「つまづく人々」

何週間か前に、5千人の給食の箇所が読まれました。今日はその続きのお話です。

5千人の人々に五つのパンと二匹の魚を分け、誰もが満腹したあの日の夕方、イエスさまは弟子たちと共にカファルナウムに向けて出発なさいました。夜が明けて、イエスさまの後を慕ってついてきていた人々は、イエスさまも弟子たちも居なくなっているのに気付きます。そこで人々は小舟に乗り、イエスさまを探してカファルナウムに来ました。

集まった人々に対してイエスさまは教えを説かれます。説教は次のように始まりました。

「あなたがたが私を探しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。」

人々は信仰的な理由からイエスさまに希望を見出したのではなく、肉体的な欲求を満たしてくれる人としてしかイエスさまを理解していなかったのです。イエスさまは人々の理解の浅さを指摘し、肉を養うパンのために労力を費やすのではなく、永遠の命を与えるパンのために働くよう諭されました。そして、暗に御自身が神の御子であると明かし、また御受難を予告し、御子の犠牲によって与えられる永遠の命について説かれましたが、人々は御言葉の意味を理解できませんでした。

イエスさまは信仰を論じられました。信じる気持ちはどのような場面にあっても生きる力と希望とを生むからです。ところが人々はイエスさまの教えに応えられませんでした。彼らは信じられなかったのです。信じる心が彼らの内に育っていなかったのです。それまでイエスさまを慕っていた人々の中の多くが、「こんなの聞いていられない」と不平を言い始めました。これに気付かれたイエスさまは、落胆の思いで次のように仰いました。

「あなたがたはこのことにつまずくのか。」

躓きとは信仰の拒否であり、神から離れて罪へと堕ちる様を言う言葉です。イエスさまは真理を教えられましたが、人々の信仰はその御言葉を理解できるほどには育っていなかったのです。

さらにイエスさまは、「それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば…。」と言葉を続けられましたが、どのような思いでこう仰ったのでしょう。イエスさまは、これから御自身の身に起きる事柄を全て視野に入れておられました。十字架に上げられ、死人の内より上げられ、ついには天に上げられる。「もと居たところ」とは天の御座、神さまの右の座のことです。エルサレムの都に集まる多くの人々が、これらの出来事を目にするはずですが、イエスさまこそ命のパンであると認められない者は、御受難と御復活、昇天の一切を理解できないのです。イエスさまがどれほどの思いを注いでも、その人はイエスさまを遣わされた神さまの示される道を歩めない、その道がそこにあると気付きもしないのです。イエスさまはとても悲しかったのではないでしょうか。

5千人の人々と食卓を囲んだ時、イエスさまはわずかなパンを分け合うという体験を通して、信仰を、信じることの大切さを教えようとなさいました。神さまを信じて、希望をもって臨むならば、状況がどれほど私たちに悲観させようとも信仰が私たちを満たすと教えられました。ところがイエスさまの御心は人々に伝わっていなかったのです。人々はイエスさまを表面的にしか理解できなかったのです。

私たちは月に一度、イエスさまと共に食卓を囲み、パンとぶどう酒に与ります。この時、食するという行為を通してキリストの贖罪と御復活への信仰を確かめ、恵みに与ります。信仰を抜きにしてパンを頂いても、何の意味も持ちません。キリストは聖霊の働きによって、この食卓の交わりを通して私たちに力を与えます。この力は私たちを内からも外からも襲う攻撃に対して抗う力となります。めげそうな時、諦めそうな時、躓きそうな時に私たちを支えてくれるのです。絶望しそうな時に希望を見出させるのです。

雛鳥は巣立ちの前に羽ばたく練習を繰り返し、準備をします。巣の縁に足を掛ける時、きっと希望と同時に恐怖も感じているでしょう。恐怖は雛鳥を躓かせます。しかし、その恐怖を乗り越えてジャンプできるのは、自分なら出来る、これまでに受けて来た訓練は、これまでに親鳥から受けて来た愛情はそれを可能にするという信頼と希望があるからです。親鳥はこの時までに、心を込めて雛鳥を育てます。身体だけではなく、信じる心を育てます。後ろを振り返れば自分を愛する親鳥が居ると信じられるから、雛鳥は飛び立てるのです。信じる心は躓きを乗り越える力なのです。キリストの言葉と聖霊による交わり、とりわけ主の食卓における交わりは私たちに勇気を与え、希望を、可能性を与えます。

イエスさまも親鳥と同じ気持ちで、言葉だけではなく体験によって人々の信仰を育てようとしておられたのではないかと思いますが、全ての人が主の御心を受け止められたかと言うと、そうではありませんでした。ほとんどが去って行ってしまいました。巣に残っていたならば訓練を続けられたでしょう、弟子たちの群れに残っていたならば更なる教えを重ねて信仰を育てられたでしょう。しかし、これらの人々は去ってしまいました。では、これらの人々とイエスさまとの関係はこれでおしまいなのでしょうか。そうではありません。福音書記者ヨハネの記すイエスさまの最後の祈りは、この時にはまだイエスさまを信じられなかった人々、イエスさまから離れて行った人々のために捧げられています。

「また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。」

彼らとはイエスさまを信じ通した者を指しています。イエスさまは御自身を信じた者たちだけではなく、それらを通して信じるようになる者について祈っておられます。今日イエスさまを見限った人々であっても、改めて弟子たちによる伝道を通して信じる者となる可能性はあります。イエスさまはその可能性を信じておられます。

「こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。」

この御言葉が、私の解釈を支えています。神さまは御自身から離れている者、離れようとしている者をも愛され、一つになさろうとしておられるのです。だから、私たちは何度でも立ち帰れるのです。

命のパンについての説教は、人々をイエスさまから遠ざけてしまいました。単独の出来事として切り分けて見ると、この説教は失敗です。この説教には、聴き手に充分な準備が出来ていないのに巣から飛び立たせようとするような危うさがあり、その危うさがまさに現実の形になってしまったのですから。しかし、ヨハネの描くイエスさまの御生涯全体を見た時、この出来事は私たちに可能性を残していると気付きます。私たちは取り返せるのです。私たちは自分自身を取り返せるのです。私たちは去って行った人々を取り返せるのです。

もしも心に後悔があるならば、それと今一度向き合ってみても良いのではないでしょうか。信仰をもって見詰められる今ならば、過去の苦い思いの中にも神さまの御心を見出せると思います。

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