復活節第3主日礼拝説教

2024年4月14日

ヨハネによる福音書 21:1-14

「再び食卓を」

復活されたイエスさまとの出会いは一回だけであるとは限りません。イエスさまは必要とあらば繰り返し御姿を現してくださいます。ヨハネによる福音書においては、まず墓の前でマリアに姿を現され、その1週間後には他の弟子たちに、更に1週間後にはディディモと呼ばれたトマスのために、そして今日はティベリアス湖のほとりで7人の弟子たちのために御姿を現されました。

時期は示されていませんが、御復活の後、イエスさまの一番弟子であったシモン・ペトロを始め、トマス、ナタナエル、ゼベダイの子ヤコブとヨハネ、それと名前は明らかにされていませんが二人の弟子たちはティベリアス湖に居ました。これはガリラヤ湖の別名です。彼らの内のペトロとゼベダイの子たちはイエスさまに従う前はガリラヤ湖で漁師をしていましたから、彼らは普段の生活、慣れ親しんだ生活に戻っていたと言えます。

弟子たちはいつものように漁に出ましたが、夜通し網を打っても残念ながら何も獲れませんでした。完全に夜が明けてしまって、もう諦めようとしていた時、岸から誰かが彼らに声を掛けます。彼らに声を掛けたのはイエスさまでしたが、彼らはその声の主に気付きません。少し距離があったからです。ここからイエスさまと弟子たちの会話が始まります。

イエスさまは何か穫れたかと尋ねられました。弟子たちは何も成果が無かったと答えます。するとイエスさまは「舟の右側に網を打てば穫れるはずだ」と助言をなさいました。この問答を聞いて「どこかで聞いた」と思われる方も居られるでしょう。同じようなやり取りがルカによる福音書にも収められていますが、それはペトロやゼベダイの子たちが弟子として召し出されるシーンです。この時イエスさまは彼らに「人をとる漁師としよう」と言われました。人をとる漁師とは伝道者のことです。ルカによる福音書では弟子たちを伝道者として召し出す際にこの問答がありました。ヨハネによる福音書で御復活の後にこの問答がなされている理由は何でしょうか。きっと、弟子たちは復活されたイエスさまと出会った後、それぞれの生活の場に戻って、そこで伝道をしていたのでしょう。しかし、その伝道ははかばかしくなかったので、弟子たちは悩んでいたのだろうと思われます。

イエスさまの助言の通りに網を打つと、網を引き揚げられないほど多くの魚が捕れました。ここに来て、ペトロと一緒に舟に乗っていた弟子が、自分たちに声を掛けた人の正体に気付きます。岸に立っているのがイエスさまであると知ったペトロは、嬉しさのあまり、すぐにイエスさまに会いたくて湖に飛び込みます。舟はイエスさまの立っておられるあたりから、200ぺキス、90mほどしか離れていなかったので、舟を漕ぐより泳いだ方が早かったのです。

岸に着くと炭火が熾してあり、魚とパンが用意されていました。魚とパンの食事は、当時の普通の食事ですが、やはりこの光景からも私たちは別のシーンを思い起こします。五千人の給食の出来事です。あの時は1人の少年が差し出した五つのパンと二匹の魚を分け合って食べました。イエスさまが祈って分け与えられると、不思議とパンも魚も尽きることは無く、五千人の全員が満腹し、12人の弟子たちもお腹いっぱいになりました。あの時と同じように、今またイエスさまがパンと魚を7人の弟子たちに分け与えられます。弟子たちは何も疑問に思いませんでした。ただただ、イエスさまと一緒に食卓を囲める喜びが彼らを包んでいました。

この時、弟子たちの心にはかつての温かな思い出と共に、これからの伝道への希望が生まれました。イエスさまの道を伝える業は、熟練した漁師が漁に出るように、長年の経験と勘に頼って行われるものでもなければ、人間的な熱心さや努力によって行われるものでもありません。弟子たちも私たちも、復活の朝の光の中で、思いがけず出会うイエスさまに導かれ、またイエスさまの用意してくださった食卓に招かれ、新しい命の力を頂いて初めて福音を伝える力を得るのです。

今日はヨハネによる福音書の他にペトロの手紙とイザヤ書が日課として指定されています。ペトロの手紙には「あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです」とあります。朽ちるものに心を奪われ、朽ちない真理を見失っている現代社会にあって、教会の宣教の業は困難を極めています。そんな中、アメリカでは近年、メガチャーチと呼ばれる教会の活動が盛んになっています。一般的には礼拝出席者数が2000人を超える教会をメガチャーチと呼びます。このメガチャーチでの礼拝に出席する人の人数は、1990年には85万人であったものが、2017年には700万人を超えるまでになっています。メガチャーチでは、教会に集まる人々をそれぞれのニーズに合わせてグループ化し、スポーツや音楽、ダンス、あるいは男女の出会いの場を提供した結果、ある種のエンターテインメントの場として機能し始めたのが急速な成長をもたらしたのだそうです。もちろん、それだけではありません。貧困者への支援にも積極的に取り組み、教会に期待されている力を充分に発揮しているからこそメガチャーチが信頼され、成長していることは事実です。メガチャーチはアメリカの伝道において、効率的に、極めて大きな成果を上げていると言えますが、果たして個々人の心に触れているでしょうか。個々の心に関わるような牧会はメガチャーチには困難であるように私には思えます。イザヤは言いました。私たちは貧しい人に良い知らせを伝え、打ち砕かれた心を包み、囚われ人に自由を、繋がれている人に解放を告知するためにこの世に遣わされています。私たちは人々を集団として捉えるのではなく、まず目の前の一人に目を向けるべきです。

どこにでも「困った人」が居ます。私は常々思います。私たちが誰かを見てその人を「困った人」だと思う時、本当に困っているのはその人自身だと。周囲の人々が問題だと思う言葉や行いの裏には、その人自身の「困った」が隠れているのです。私たちの教会は、隠されたその「困った」に目を向けるべきです。苦しんでいる人、悩んでいる人、自分の悩みや苦しみを自分でもどうにもできない人々、居場所の無い人と思いを分かち合い、共に歩むために教会は建てられているのですから。

その取り組みを目の前にして、困難さを覚えるかもしれません。なかなか思ったように成果を得られないかもしれません。何とか心を開いてもらいたいと思っても、全然心を開いてもらえない。問題に共に取り組むところにまでいけないと悩むかもしれません。網を打つことに虚しさを覚える私たちを見詰める目があります。「舟の右に網を打ってごらん」と助言してくださる方が私たちのそばには居られます。私たちが望む前から、復活のイエスさまは私たちのそばに立って導いてくださいます。私たちが心を砕くまえから、復活のイエスさまは朝の光の中に食卓を備えて招いて下さいます。私たちは最早、闇の中で虚しく網を打ち続ける者ではありません。

イエスさまは私たちと出会ってくださいます。私たちを食卓に招いてくださいます。伝道とは、この喜びを伝える働きを言います。何よりもまず、私たちがこの喜びと共に生きるのです。今日も私たちの中心に復活のイエスさまをお迎えし、イエスさまと共に世へと出掛けてまいりましょう。

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