復活節第5主日礼拝説教

2024年4月28日

ヨハネによる福音書 15:18-27

「あなたがたも証しを」

今日読まれた聖書の箇所は、いずれも頑なな心について論じています。頑なな心は私たち自身を苦しめ、また私たちが福音を伝えたいと願っている人の心に蓋となってしまいます。このように頑なな心は何とかして神さまに砕いていただかなければいけない、重い石のようなものです。

イエスさまは、御受難と御復活の後に弟子たちが受けるであろう迫害に供えて、世とイエスさまとの関係を覚えておくよう勧めておられます。イエスさまはユダヤの人々に愛の教えを語り、また愛の実行を通して神さまと人間とのあるべき関係を明らかにされましたが、ユダヤの人々の大部分は根本の部分でイエスさまを理解できませんでした。

もちろん弟子たちはイエスさまの御教えを受け継いで神さまの愛を宣べ伝え、イエスさまを信じる者は広く地中海世界全域にまで増えていったわけですが、それでもキリスト者はどこに行っても少数者でした。そして大多数の人たちにとって、キリスト者の生き方は理解しにくかったようです。ヨハネによる福音書は4つの福音書の中でも最も後に書かれた福音書です。福音書記者ヨハネは、自分たちの置かれている状況とイエスさまの語られた御言葉とを照らし合わせて書き記しました。多数の人が理解できないキリスト者の行動の例として、孤児の保護が挙げられます。

当時は食糧の生産力が今よりもはるかに小さかったので食糧の確保が常に生活の課題となるような状況にありました。その困難さの弊害は、自らの力で食糧を得られない人への配慮をしにくいという事実となって現れます。食糧が手に入りにくくなってしまった時、子どもは捨てられていました。周囲の大人も、自分たちが食糧を得るのに精一杯なので、捨てられている子どもを助ける者はいませんでした。捨てられている子どもは見捨てられるのが当たり前だったのです。しかし、キリスト者たちは捨てられている子どもを見付けると、自宅に連れ帰って保護し、育てました。縁もゆかりも無い捨て子を、何の利益も得られないというのに、育てるのです。これは周囲の人々にとっては理解し難いことでした。

実は、こういうキリスト者の行いが、後に迫害の口実となりました。

私たちはイエスさまのことを「神の独り子」「神の御子」と呼びます。そして、聖餐式においてはパンを「私たちの為に裂かれたキリストのからだ」「御子の肉」として頂きます。この言葉と、孤児を自宅に連れ帰るという行為とが悪意によって結び付けられて、「キリスト者は赤ん坊の肉を食べている」という風聞、中傷へと変化し、迫害の理由とされたのです。初代教会の迫害との闘いには、このような誤解を解くという側面がありました。

なぜ、キリスト者は周囲の誤解を受けてまで孤児を保護したのでしょうか。イエスさまが、そのようになさったからです。飢えている人々を見たイエスさまが、彼らにパンをお与えになったように、弟子たちも行ったのです。主が自らをお与えになったのと同じように、自分たちも自分の食べる物を減らしてでも、弱い者、小さな者に与えたのです。当時のキリスト者は、世間一般の「物の考え方」とは違う筋道で物事を捉え、理解し、行動しました。多くの人々は、自分たちには理解できないことをするキリスト者を不審に思い、嫌ったのです。

孤児の保護は正しい行いであると今の私たちは考えます。その正しさは当時生きていたキリスト者以外の人にとっても、聖書を読んだことの無い人々にも理解できたはずです。ほとんどの人が、心の底ではキリスト者の行いを理解できていたのではないかと思います。キリスト者を憎んだ人々もキリスト者の行いを理解できていたのではないかと思います。でも拒絶的な態度を取るより他無かった。その理由はこの当時にあって、子捨てが私たちの想像よりも多くあった出来事だったからではないかと想像します。当時の人々にとって身近で頻繁に起きていたのだとしたら、それは多くの人々の負う苦い記憶だったでしょう。子どもを捨てた過去の記憶に苦しんでいる時に、キリスト者たちは捨てられている子どもを連れ帰って育てる。黙って正しい行いをする。その行いの正しさが、世間の人々に我が子を捨てたという過去の後ろめたさを突き付け、苦しめたのではないでしょうか。キリスト者は、正しい行いによって、それを行えない人々の苦しみを暴いてしまったのではなかったか。全ての子どもが助けられたというわけではないでしょう。助けてもらえなかった子の親にとっては、自分が捨てたために子どもが死んでしまったと考えるよりは、捨てられた子どもは最終的にキリスト者を名乗る怪しい連中の儀式のために殺されたと考える方が楽だったでしょう。これが突拍子も無いほどの悪い風聞を撒き散らし、これによってキリスト者を憎む口実とし、迫害する理由となったのではないかと想像します。

正しい行いの故に苦しまなければならないとするならば、私たちはどのように生きれば良いのでしょう。正しさにおいて妥協をするべきなのでしょうか。私は人を助ける行いや正しい行いを控えてはならないと考えます。ただ、時に私たちの考える正しさが、世のそれと、世の人々の想いと一致しない時もあると覚えておく必要があるのです。そんな時、私たちが世に対して無理解であったならば、自分の考える正しさに対してあまりにも頑なであったならば、世に対して拒絶的な姿勢を取ってしまったら、私たちが本来伝えたいと願っている何かを伝えにくくなってしまいかねないのです。私たちは常に対話を試みるべきです。対話の上に証しを立てる、正しい行いをする。イエスさまも対話をなさいました。ファリサイ派の人々が論戦を仕掛けて来る度にイエスさまは、時にユーモアも交えて議論なさっていました。最後に世はイエスさまを拒絶してしまいましたが、イエスさまは世を拒絶なさいませんでした。だから、例え世が私たちを拒絶したとしても、私たちは世を拒絶すべきではありません。根気強く世に対して証しを立てなければならないのです。自分が正しいと信じられる時にこそ、相手にも立場があることを覚え、それを損なわないような対話を心掛けなければならないと、今日の御言葉を通して思わされます。

世の人々が私たちを理解できなくても、それは当たり前です。立場が違うのですから。イエスさまは立場の違いを乗り越えて愛を伝えようとして、悩み、苦しまれました。その末に、究極の形として十字架の上で痛みを甘んじて受け、命を捨てられました。私たちのための救いは、イエスさまが得るべきではない痛みを味わい、捨てるべきではない命を捨てられたのと引き換えに与えられました。この救いを世の人々にも得てもらいたいと私たちは願っています。証人として立てられた私たちは、世の理解を得るために何を捨てられるでしょうか。何を甘受できるでしょうか。私たちがまず捨てるべきは、私たちの内にある頑なな心です。「当然分かるはずだ、だって正しいんだもの。」このような考えは石のような頑なな心だと思います。分からなくて当然、でも分かって欲しい。そのような思いで私たちは世に語り掛けるのです。私たちは何を甘受できるでしょうか。私たちは無理解を甘んじて受け入れるべきです。その上で諦めることなく、根気強く福音を宣べ伝えるのです。他者のために、証のために、福音のために私たちは何を差し出せるでしょうか。

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