復活節第2主日礼拝説教

2024年4月7日

ヨハネによる福音書 20:19-31

「あなたが信じるために」

今日のポイントは宣言です。その宣言はイエスさまが私たちを信じてくださっている証拠です。私たちはイエスさまの宣言をどこまで信じられているのでしょうか。私たちはイエスさまの期待に応えられるでしょうか。

先週、ペトロともう一人の弟子は、イエスさまの御遺体を納めたはずの墓が空であると確認しました。復活されたイエスさまと再会したマグダラのマリアは、自分の体験を他の弟子たちに知らせて回りました。ですから、弟子たちはイエスさまの御復活をマリアから聞いて知ってはいましたが、戸に鍵をかけて家の中に隠れています。彼らはユダヤ人たちを恐れていたのです。イエスさまの御受難から10日ほどが経っていますが、都の人々の興奮は未だ冷めていなかったのでしょうか。弟子たちはイエスさまを十字架に掛けたユダヤ人たちが、自分たちをも同じように異端であると見做し、処罰するのではないかと恐れていました。

御存知の通り、キリスト教はユダヤ教から発展して成立した信仰ですが、今では別の宗教であると互いに考えています。根っこは同じでも、いくつかの点で違いがあり、その違いの故に同じ宗教とは言えないと考えているのです。では、何が違うのかと申しますと、救い主、キリストの存在です。私たちはイエスさまこそ神の独り子であり、救い主たるキリストとして世に来られた方であると考えていますが、ユダヤ教ではそのようには考えません。イエスさまがどのような方であると理解するかについての違いは、イエスさまが地上を旅しておられた時にも既に表面化していました。その違いは、罪の赦しにおいて最も顕著に表れていました。

マタイ、マルコ、ルカの三つの共観福音書は共通して「中風の人の癒し」のエピソードを納めています。ここでイエスさまは、中風、いわゆる麻痺を患っているために寝たきりの生活を送っている人に罪の赦しを宣言されるわけですが、これを聞いたユダヤ人たちがそれを神さまへの冒涜であると咎めます。「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒瀆している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」と彼らは言うのです。これに対してイエスさまは、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」と仰います。次いで中風の人に「床を担いで家に帰りなさい」と御命じになると彼は起き上がり、床を担いで家に帰りました。イエスさまは癒しの御業を通して、罪を赦す権威を神さまから与えられていると証明なさいました。

ユダヤ人たちにとって、罪の赦しについての考え方の違いは決定的でした。そしてついにユダヤ人たちはイエスさまを異端であると見做して処刑してしまったのですから、弟子たちは自分たちも同じように処刑されてしまう可能性があると考え、不安に苛まれていたのです。

弟子たちは家にある扉の全てに鍵をかけていました。窓も雨戸を下ろして閂を掛けていたでしょう。弟子たちは真っ暗な部屋の中で怯えていました。すると、誰も入って来られないはずなのに、突然イエスさまが彼らの真ん中に御姿を現し、「あなたがたに平和があるように」と仰います。これはアラム語で日常的に用いられる「シャローム」という挨拶の言葉をギリシャ語に訳したものであると考えられますが、この言葉は単なる挨拶である以上に深い意味を持ちます。これは挨拶であると同時に、相手を祝福する言葉なのです。

ギリシャ語でも日本語でも「シャローム」は「平和」と訳されていますが、ユダヤの人々は平和とは神さまと共にある状態であると考えていました。彼らは「神さまがあなたと一緒に居られるように」との思いを込めた言葉、祝福の言葉を挨拶として用いていたのです。不安に震える弟子たちを祝福し、神さまが共に居られるとイエスさまは宣言されました。彼らはイエスさまが逮捕された夜、イエスさまを見捨てて逃げてしまいました。自分たちの裏切りを責められるのではないかという不安が弟子たちにあったとすれば、この言葉はどれほどの安心を彼らに与えたことでしょう。イエスさまは弟子たちの恐れに換えて平和をお与えになりました。

イエスさまは弟子たちに両手に釘を打ち込まれたために出来た御傷と、槍で突かれた切り傷とを示されます。これは、イエスさまが確かに人間と同じ身体を持っておられたことの証明であり、また確かに十字架の上で死なれたという事実の証明でもありました。つまり、御復活が事実であると弟子たちに直接示されたのです。弟子たちは今自分たちの目の前に立っておられるイエスさまが本物であると確信し、喜びました。

そんな彼らをイエスさまは重ねて祝福し、「わたしもあなたがたを遣わす」と宣言なさいました。一体、何のために派遣されようとしているのでしょうか。イエスさまは弟子たちに息を吹きかけます。「息が掛かる」とは、日本語でも誰かの影響力や支配の下にある様子を表現する言葉として用いられますが、ここで弟子たちは正にイエスさまの御心と御力によって派遣されようとしています。その目的は、罪の赦しでした。

マタイによる福音書の最後においてもイエスさまは弟子たちを派遣していますが、これは宣教の大号令と呼ばれるように、ここでイエスさまは弟子たちに宣教を命じておられます。

「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」

これがマタイの記したイエスさまの最後の御命令ですが、ヨハネによる福音書では「聖霊を受けなさい。人々の罪を赦しなさい。」とイエスさまは弟子たちに御命令なさるのです。これは私たちの教会にとっても大切な意味を持ちます。何故ならば、私たちはこの弟子たちの末に居る者だからです。イエスさまは赦しの業を為すべき働きとして弟子たちに授けられましたが、それは12人の個々人に与えられたという意味ではなく、弟子たちから始まる教会、今にまで繋がる全ての教会に与えられているからです。

「一体、誰が罪の赦しを宣言できるのか。神さまだけではないか。」と私たちは恐れるかもしれませんが、「あなたがたこそ罪を赦せ」とイエスさまは大切な役割を託されます。にわかには信じられないような大きな役割であり責任ですが、私たちには出来るとイエスさまは期待しておられます。罪の赦し、赦しの宣言は、宣教と並んでイエスさまによって託された教会の大切な働きです。イエスさまが天に昇られてから後、今の世においては私たち教会が罪の赦しを宣言するのです。その根拠が今日示されました。

今日の礼拝から私たち秦野教会は、これまでよりも明確に罪の赦しを宣言しました。これは教会の総意を形成する、秦野教会の信仰を明らかにする皆さんの選択です。そしてこの選択は最終的な到達点ではありません。何故ならば、私たちの信仰はこれからも成長するからです。私たちの中心に居てくださるイエスさまによって導かれ、私たちの信仰は更に成長し、更に強められるのです。何と嬉しいことでしょうか。

私たちへの期待は、イエスさまの期待はこんなものではありません。もっともっと大きな期待をイエスさまは掛けてくださっています。その期待に、イエスさまの御心に応えていきたいと私たちは願うのです。

説教目次へ