復活節第7主日礼拝説教

2024年5月12日

ヨハネによる福音書 7:32-39

「活ける水」

イエスさまは数日前からエルサレムの都に滞在しておられます。その目的は、仮庵の祭りを祝うためでした。この仮庵の祭りは、スコトとも呼ばれ、モーセたちユダヤ人の祖先がエジプトを脱出する際に荒れ野で天幕に住んだことを思い起こすための祭りです。この祭りは今でも続いていて、ユダヤの人々は例えば庭やテラス、ベランダ、建物の屋上ですとか、ちょっとした空き地などに天幕を張り、一週間の間そこに住みます。

この時、すでにユダヤの当局はイエスさまを迫害していました。ユダヤ人たちは、イエスさまを捉えるために探していました。もちろんイエスさまはそれをご存知でした。それなのにイエスさまは神殿の境内で人々に教え始められました。きっと、聖書の御言葉を語らずにはいられなかったのでしょう。

その内容はとても豊かで、ユダヤ人たちが「この人は学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなに良く知っているのだろう。」と不思議に思うほどでした。この疑問にイエスさまは答えられます。「私の教えは、私のものではなく、私をお遣わしになった方のものである。」そして続けられます。「この方の御心を行おうとする者は、私の教えが神から出たものか、私が勝手に話しているのか、分かるはずである。自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。」

この御言葉は説教者にも、説教を聞く者にとっても、大切な教えです。説教者にとっての誘惑のうちの最大の物は、自己顕示欲であると思います。「私はこんなにも豊かに語れる、私はこのような良い業を行える。」と誇示したくなってしまうのです。しかし、これをした瞬間に、その人の語る言葉や良い行いからは真実が失われてしまうのです。

また同様に、「誰それは良いメッセージをする。」とか「誰それのメッセージだから、それは良い物だ」というような捉え方は、そのメッセージに秘められた本当の意味を覆い隠してしまいます。大切なのは、そこに神さまからのメッセージがあるということであって、そのメッセージが神さまから与えられたということなのです。イエスさまも、ご自分の語られたことは神さまから出たものであると証言なさいました。

これを聞いた人々の中からイエスさまを信じる者が大勢出ました。彼らは口々にこう言います。「メシアが来られても、この人よりも多くのしるしをなさるだろうか。」このように人々が言い合っているのを聞いたファリサイ派の人々は、イエスさまを捉えるために役人を遣わします。人々がイエスさまを救い主メシアと同列に語る事、あるいは同一視することは、宗教的に不穏当なことだったからです。

もっとも、この時役人たちはイエスさまを捉えませんでした。それは、まだイエスさまの時、つまりご受難の時は来ていなかったからです。イエスさまは言われます。

「今しばらく、私はあなた方と共にいる。それから私を遣わした方のもとへ帰る。」

この御言葉が何を意味しているのか、私たちはすぐに分かります。まだ十字架に上られる時が来ていない。その時が来るまで、イエスさまは地上を旅される。その事を仰っているのです。

今イエスさまを捉えに来ている人々は、イエスさまが何を仰っているのか理解していないでしょう。また、これまでにイエスさまが語られたこと、なさったことの意味を理解していないでしょう。もしも理解していたならば、彼らはただちにイエスさまの下で教えに耳を傾けていたはずですから。

これより後にこれらのことの意味を悟る時が来るかもしれません。「あの時の言葉の意味はこれだったのか、あのようになさったことにはこのような意味があったのか。」と後になって気付くことがあるかもしれません。その時に、「もう一度聞きたい、もう一度触れてもらいたい。」と思っても、その時にはイエスさまは既に天に凱旋された後なのです。もう会うことはできないのです。その事を指してイエスさまは仰います。

「あなたがたは、私を捜しても、見つけることがない。私のいる所に、あなたがたは来ることができない。」

この時イエスさまの御言葉を聞いているユダヤの人々は、その意味を理解できませんでした。人間は自分たちの未来を見通せません。ですから、誰かが自分たちの未来について語ったとしても、それを理解することは難しいのです。

彼らは話し合います。「私たちが見つけることはないとは、この人はどこへ行くつもりだろう。ギリシア人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシア人に教えるとでもいうのか。」

この時代よりも随分前から、多くのユダヤ人が地中海世界に散らされていました。かつては大国の圧力や周辺の民族による迫害から逃れるために各地に散った人々という説明がなされていましたが、今では商業を行うために往来する中で、外国に定住するようになった人々であると理解されています。これらの人々は、外国でも自治組織を持ち、聖書の教えを守って暮らしていました。イエスさまの御言葉を聞いた人々は、イエスさまが外国に住むユダヤ人たちのところに行って、そこに住む外国人に教えて回るのだろうかと勘違いしたのです。

イエスさまは外国には行かれませんでした。そして、地上での旅は一度きりでした。マリアからお生まれになって、十字架の上で死なれるまでの間だけの一回きりでした。この時代、イエスさまと同じ時代を生きた人は、十字架の出来事の後に「あの時もっとしっかり聞いていれば」と悔やむこともあったでしょう。その時に「もう一度聞きたい」とイエスさまの御姿を探しても、その時には既に天に上られています。「私を捜しても、見つけることがない。」その通りです。後々になって探しても、その時にはイエスさまは天に上られているのです。

しかし、だからと言って御言葉が地上から絶たれたというわけではありません。イエスさまの御教えは伝道のために各地に遣わされた弟子たちによって外国人たちにまで宣べ伝えられたからです。伝道者からイエスさまの教えを聞く時、聴衆は目の前にイエスさまを見ました。イエスさまはあなたにも御姿を現わされました。私もイエスさまに出会いました。私たちはイエスさまに会えるのです。

イエスさまは祭りの終わりの大事な日に、大きな声で宣言なさいました。

「渇いている人は誰でも、私のもとに来て飲みなさい。私を信じる者は、聖書が語ったとおり、その人の内から生ける水が川となって流れ出るようになる。」

イエスさまの御言葉は、イエスさまが十字架で死なれた時に死んでしまったでしょうか。そうではありませんよね。イエスさまの御言葉は、イエスさまが天に上られた時に絶えてしまったのでしょうか。そうではありませんよね。イエスさまの御言葉は生きています。今も生きています。永遠に生き続けます。今も与えられています。これからも与えられます。

その御言葉は、それを求めた人々を通して受け継がれています。渇きを覚えてイエスさまの御許を訪れ、イエスさまを信じた人は、イエスさまが天に上られた後もこの御言葉を伝えました。イエスさまを求める人々の渇きを癒しました。そのようにして受け継がれてきた御言葉が、生きた真の水が今、私たちの渇きを癒しているのです。そして、私たちからも真の水は湧き出して、私たちの周りにいる渇いた人々の心を潤します。

こう言われても、本当かなと疑問に思いますよね。特段雄弁なわけでもないのに、どのように御言葉を語れると言うのだろう。力も弱く、不器用な私なのに、何ができると言うのだろう。牧師もこのような悩みを持ちます。本当にこれで良いのかなと不安になります。一生懸命に語っても理解してもらえない時などは、孤独感で潰されそうになります。決断する責任を負わなければならない時には恐ろしさを覚えます。このような重荷を一人で抱えなければならないのでしょうか。

一人では負いきれない時は「助けて」と声を上げれば良いのです。時々、「助けて」と言っちゃえば良いのに言えない人を見かけます。なぜ「助けて」と言えないのでしょうか。怖いからです。人は助けを求める相手を選びます。どんな人にならば助けを求められるでしょうか。人は、「この人ならかばってくれる」と思える人になら弱音を吐けるものです。問題を解決してくれるかどうかは、その次だと思います。それが弱い人であったとしても、かばってくれる人に活ける水を見出すのです。

礼拝に先立って聖書研究会を行いました。その席上で私が神学生だった頃のお話をしました。もしかしたら、皆さんも過去に耳になさったかもしれません。けれども我慢してください。私はその教会で教会学校の幼稚科を担当していました。神学生の奉仕として、また実習として教会学校の働きをしていたわけです。

幼稚科と言いますと、年齢の幅は0歳さんから6歳ぐらいです。この年齢層というのはとても違いが大きいですよね。6歳の子どもはもうほとんど小学生なのに対して1歳、2歳の子どもは、まだまだ赤ちゃんです。遊ぶにしても、一緒に遊ぼうというのがなかなか難しい場面もありました。 集まってきていた子どもたちの中に2歳の女の子がいました。この子は、子ども同士で遊ぶ分にはよく遊ぶのですけれども、私には近付きませんでした。

気持ちは分かるんです。だって知らない、でっかいおじさんが近付いてきたら、やはりちょっと怖くなると思います。朝迎える時も、お母さんのスカートの陰に隠れているというような、そういう子どもでした。なんとかしてこの子との間に信頼関係を結びたいなとは思っていましたけれども、「私を信頼せよ」と2歳の子どもに言ってもしょうがないわけです。その子が心を開いてくれるのを待つ他ありません。

この子が「今この瞬間に心を開いた」と思わせるような出来事がありました。分級の時間に椅子取りゲームをしていた時のことです。椅子取りゲームは、ご存知の通り集まっている子どもの人数に対して椅子を一脚だけ減らします。で、座れなかった子は立って次に座る機会は待つわけです。座れるか座れないかのスリルが楽しいゲームなわけですけれども、ある5歳か6歳ぐらいの女の子が3回ぐらい立て続けに座れなかったために泣き出してしまいました。私は泣くのを見ていられなくなって、その子を抱っこして膝の上に乗せて、「泣く子が出るなら、もう椅子取りゲームやめよう」と、他の遊びに切り替えてしまいました。

ゲームの遊び方を学ぶというような、例えば教育的な場であれば、私のやったことは明らかな間違いです。けれども、教会は学びの場ではありません。その時は違う遊びをまた始めましたが、その様子を見ていた2歳を女の子が、その時を境に私に近付いたり、私に触れるようになったり、手を繋ぐようになったりしました。距離が近づいたのです。私を信じてくれるようになったと、私は思いました。泣いている子どもを放っておかない人だ。この人はきっと、私が泣いている時も慰めてくれるだろう。抱っこしてくれるだろう。この人には抱っこしてもらってもいい。この人は安心できる。そのように思ってもらえたからこそ、この子どもは近付いてくれたのだと思います。

大人であっても同じだと思います。この人にならば弱みを見せても大丈夫だと思った時、私たちは自分の心の内をさらけ出すことができるのだと思います。逆に「いやあんた間違ってるよ。」という風に言われてしまうと思ったら、弱っている時は心を開けません。その時感じている痛みが大きいほど、心をさらせなくなってしまうと思います。

心を受け入れられるかどうか、泣いている子どもを抱きしめられるかどうか。それは別に特別な能力が必要とされているわけではありません。私に何か優れた力があったから、私は子どもを抱きしめたわけではりません。私はただ単にいたたまれなくなった。それだけです。そしていたたまれなくなるような気持ちは、私自身のうちから湧いたのではないと思っています。私の内に働いた聖霊が私に一歩を踏み出させたのだと思っています。何のために。その子のために?違います、私のためにです。抱き締めることの大切さを私に教えるために聖霊が働いてくれたのだと信じています。

活ける水は、特別な人から湧き出すものではありません。その人が優れているから、強い人だから湧き出すわけではありません。救い主を、赦してくださるイエスさまを、かばってくださるイエスさまを信じる人全てから湧き出すのです。弱い人からも、小さな人からも湧き出します。痛みを知り、怖さを知り、誰かをかばおうとする時、その人から活ける水が湧き出るのです。そこに働く聖なる霊が、その人から活ける水を湧き出させ、渇く人々を癒します。

あなたが誰かに手を差し伸べる時、そして誰かがあなたに手を差し伸べる時、そこに活ける水が湧き出しています。あなたが誰かをかばう時、誰かがあなたをかばう時、そこに活ける水が湧き出しています。誰かがともに祈る時、そこに活ける水がほとばしり出ています。私たち全てを通して神さまは活ける水をお与えになるのです。その事をイエスさまは仰っているのです。私たちが助けを求める時、働かれるのは聖霊です。聖霊は人と人との交わりを通して働かれます。渇きを覚える時、私たちが飲むべきなのは涙ではありません。神さまは私たちに真の水をお与えくださいます。私たちは祈ります。神さま、私たちの渇きを癒してください、人々の渇きを癒してくださいと。

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