聖霊降臨節第1主日礼拝説教

2024年5月19日

使徒言行録 2:1-11

「注がれる聖霊」

旧約聖書に収められている三大預言書を記したエゼキエルは、紀元前6世紀の前半、バビロン捕囚時代に活動した預言者です。彼がどのような人物であったのかは、あまり分かっておりません。というのも、彼の生涯についてはエゼキエル書以外に記載が無く、またそのエゼキエル書においても個人的な記述が少ないために知りようが無いのです。祭司に伝わる伝承に通じていたことから、エルサレム神殿の祭司であっただろうと予想されます。

彼は不信仰に陥ったイスラエルの民に対して悔い改めを呼び掛けました。この点においては、他の預言者と似ていると言えるでしょう。エゼキエルの預言の特徴とは何かと考えた時、真っ先に浮かんだのは幻です。彼は度々幻を見ました。

預言者の見る幻は、人の目には隠されたメッセージです。これらのメッセージは直接には語られませんでした。それを語る者は無理解からくる危害を加えられる可能性があったためです。預言者たちは、彼らが語る言葉を理解しない者に対しては口をつぐみ、聞こうとする者にだけ分かる形で神さまの御言葉を取り次いだのです。

今日読まれた箇所でも、彼は主の霊に導かれて幻を見ました。エゼキエルの目の前には無数の骨がありました。これらは既にカラカラに乾いており、命の気配は全く失われていました。主は問われます。

「これらの骨は生き返ることができるか。」

この問いの本質は、骨が実際に生き返るか否かではなく、エゼキエルが神さまの御力をどこまで信じるかにあります。神さまは、どこまで御力を信じるか、どこまで神さまに希望を見出すかをエゼキエルに問われたのです。この問いに対してエゼキエルは「あなたのみが御存知です。」と答えました。ここから読み取れるのは、彼の諦めであり絶望です。

これまでの預言活動において、エゼキエルは疲れを覚えていたのではないかと想像します。悔い改めを訴えても人々は耳を貸さず、状況は悪くなる一方。エゼキエルは二進も三進も行かなくなってしまっていたのだろうと思います。今、エゼキエルの目の前に散らばっている骨は、殺された人々の骨です。一面に転がって枯れている骨は、戦死した兵士たちのものです。エルサレムに攻め寄せるバビロニアの大軍を相手に戦った兵士たちは、絶望的な努力の末に死んでいきました。努力をしたところで勝ち目は無い。それでも努力を続けないわけにはいかない。兵士たちは疲れ果て、倒れていきました。冷たい地面だけが彼らを受け止めていました。エゼキエルは兵士たちの亡骸に自分の徒労を重ね合わせていたことでしょう。

神さまはエゼキエルに預言するように仰せられます。骨に対して、神さまは息を吹き込まれる。そうするとあなた方は生き返り、再び筋肉やその他の器官が生まれ、皮膚で覆われ、生きた霊を持つ者となると。エゼキエルが命じられた通りに預言すると、地響きと共に地面が揺れ、骨と骨とが近付き、たちまちの内に肉が生じ、人間の肉体を形作りました。

しかし、これらの肉体はまだ命を持っていませんでした。器は出来上がりましたが、中に納めるべき霊が与えられていませんでした。神さまは再び預言せよと仰せられますが、今度の相手は霊です。出来上がった肉体に神さまが霊を吹き込まれるのではなく、吹き込まれるべき霊に対して預言せよと命じられました。疲れ果てた者の魂に触れるように語れと教えられたのです。

この瞬間まで、イスラエルの民は希望を全く失っていました。バビロニアに連れ去られ、自分が何者であるかすら分からなくなってしまっていました。エゼキエルたち預言者も同様でした。神に立ち返れ、神さまとの交わりの中にこそあなたたちの救いはあると、繰り返し訴えてきましたが聞き入れられず、結局人々は全てを失ってしまいました。預言者たちは無力感に苛まれていました。人々は諦めの中で、死んだように生きていました。しかし、神さまは幻を通してエゼキエルに希望を見せ、イスラエルの民の未来を語られます。

絶望の中から希望を見出したのは、使徒たちも同様でした。イエスさまが十字架の上で死なれた時に彼らは絶望の中に放り出されてしまいました。自分も捕らえられるかもしれないという恐怖と同時に虚しさが彼らを苦しめました。これまでイエスさまに従って旅をしたが、それは無意味だったのか。イエスさまの教えを伝えるために、数々の労苦を乗り越えてきたが、それらは何の実りも結ばなかったのかと、徒労感に襲われていました。復活されたイエスさまは弟子たちと再び出会い、希望を与えられました。40日の後、イエスさまは天に昇られましたが、これは悲観すべき別れではありませんでした。御使いがイエスさまの再臨を告げたからです。

別れに先立ってイエスさまは使徒たちに聖霊が降ると予告をなさいました。また、地の果てまで行ってイエスさまを証しするという役目をお与えになりました。

五旬祭の日が来ました。これはイエスさまが天に昇られて10日が経った時と丁度重なる日でした。五旬祭はモーセに律法が与えられたことを記念する祭りでした。この祭りを祝うため、使徒たちも弟子たちと一緒に集まっていました。突然、激しい音がすると炎のような舌が現れ、そこに居た全員の上に留まります。そこに居た全員が聖霊に満たされて、様々な国の言葉で話し始めました。その内容は神さまの偉大な御業についてでした。イエスさまの予告が実現しました。

この様子を見た都の人々はいぶかしみましたが、ペトロの説教に心を打たれ、3千人もの人々が洗礼を受け、主の食卓に連なる者となりました。

エゼキエルも使徒たちも一度は絶望に沈みました。しかし、神さまは彼らを励まされました。聖霊の力を見た彼らは、再び御救いを語ります。私たちも同じです。世の力は私たちを苦しめます。人と人との関係や、その時置かれている状況によって板挟みになってしまい、身動きが取れなくなってしまうこともしょっちゅうあります。

徒労感に襲われるような時にこそ、私たちは思い起こすのです。私たちは神さまとの関係に帰れると。私たちは苦しみも悩みも神さまにお委ねできるのです。信じる者同士の交わりの中で、共に祈り、神さまにお委ねできるのです。そして、悩みをお委ねした時、実は私たちは最も雄弁に神さまを証しするのです。

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